People ・ 人の索引 ・ 紙片の日本史
工藤修
工藤修
中尉 海軍戦歴
大正4大分県生→昭6 16才で乙種予科練入隊、10.4 2期飛練課程終了→大村空経て12.7 13空配属、上海進出→9.19第1次南京空襲に菅波中尉の列機として参加、首都上空の空戦で1機撃墜も被弾し帰途拇子江上に不時着水、救助→11月本土帰還、翌年1月空母加賀乗組を命じられ、年末までの約1年南支各地の攻撃参加→とくに8.30の南雄攻撃では、指揮官手島大尉の2番機として迎撃してきた英国製グラジエーター20機と40分にわたる激烈な空戦を交え、工藤2空曹は2機撃墜も手島大尉は自爆戦死→その後赤城・百里原空勤務経て空曹長進級、日米開戦直前の16.9 3空付を命じられ台湾南部で錬成当たる→12.8のルソン島攻撃では進撃途中に機の故障で引き返したが、10日の再攻撃では激烈な空戦参加して共同撃墜9機の戦果→17.3.3宮野大尉指揮の零戦9機は陸偵に誘導され、長駆洋上を翔破して豪州北西部の要地ブルームを攻撃、果敢な銃撃により繋留中の飛行艇24機を炎上させ、空中で3機撃墜も工藤飛曹長は低空で銃撃中被弾して自爆戦死と認定。戦死後、連合艦隊司令長官より全軍布告、2階級特進の栄誉受け、飛行特務中尉に進級
ブルーム空襲で飛行艇24機を炎上させた末に低空で戦死した
- 所属
- 13空→加賀→赤城→百里原空→3空
- 撃墜の記録
- 個人撃墜数7機(公認)。資料により差があります
この人の紙片は、まだ蔵にありません。
まだ分かっていないこと
- 顔写真:まだありません。戦時中に報道された人でなければ、公有のまま使える肖像はほとんど残っていません ⚪️
- その後:戦後どう生きたかは、この資料には書かれていません。
このカードは、一冊の本から写した事実だけでできています 🟡 索引。伝記ではありません。空いている欄は、その本にそう書かれていないという意味です。推測では埋めていません。
出典=海軍戦闘機隊 誌面264
ご指摘・お問い合わせは contact@fragmentsjapan.com まで。制作方針は こちら。