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東山市郎

東山市郎

大尉 海軍

戦歴

大正4長野県生→昭6乙2期予科練生入隊→10.4操縦課程首席卒業、恩賜章授与、戦闘機操縦者→館山空経て横空2年勤務→昭5.12蒼竜乗組→17.5南京派遣隊、中支戦線出動→7月指揮の15空編入、澳口を根拠に陸戦協力・南昌進攻・SB迎撃等→初陣6.28、SB爆撃機3機迎撃した東山小隊は2機撃墜→7.14もSB9機迎撃した東山小隊、松本義晴3空曹の2機はうち3機撃墜→7.18南昌攻撃には南郷大尉指揮隊の2番機として出撃、激烈空戦で2機撃墜も南郷機が敵機と空中衝突し墜落するのを目撃→13.11再び横空復帰、新鋭機の実用実験従事、14.8筑波事故で頭蓋骨折の重傷を負うも回復→15.5空曹長昇任後、12空分隊長を命じられ、8.19第1回重慶爆撃出撃も敵影見ず帰投→10.4第3回成都攻撃では第3小隊長として出撃、前夜東山・羽田・大石(芳男)空曹4名で敵飛行場荒し焼打ちの計画が練られ、予定どおり奇襲、東山・中塚の2人は敵指揮所に爆弾投下後、東山は列機の有田三空曹と共同でSB機を撃墜、無事帰投して実用実験成功、翌16.3横空帰還→18.6新編261空分隊長転じ、翌2月サイパン進出、3.30サイパン来襲米機動部隊に対応して指揮飛行隊長率いる261空の32機は硫爆隊掩護しつつペリリュー島基地転進も翌31日再び米機動部隊来襲、迎撃した零戦は集合途上を包囲され全滅に近い損害、東山大尉は3機撃墜、自機も被弾火災、落下傘降下したが大火傷を負いサイパンに送還され、7.8付で玉砕認定

頭蓋骨折から復帰し予科練の代表格と目された名操縦者

所属
館山空→蒼竜→15空→横空→261空→ペリリュー
撃墜の記録
総撃墜機数9機。(公認)資料により差があります
この人の紙片は、まだ蔵にありません。
まだ分かっていないこと
  • 顔写真:まだありません。戦時中に報道された人でなければ、公有のまま使える肖像はほとんど残っていません ⚪️
  • その後:戦後どう生きたかは、この資料には書かれていません。

このカードは、一冊の本から写した事実だけでできています 🟡 索引。伝記ではありません。空いている欄は、その本にそう書かれていないという意味です。推測では埋めていません。

出典=海軍戦闘機隊 誌面253

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