海の底と、話ができた
——第四十三潜水艦の、四時間四十五分
大正十三年(一九二四年)三月十九日、午前八時五十八分。長崎・佐世保の沖、黒島の南方およそ四浬の海で、演習中の第四十三潜水艦が軍艦竜田と接触して沈んだ。乗っていたのは四十五人。水深はおよそ三十六メートル。
海面には、電話浮標が一つ浮かんでいた。沈んだ艦から放たれる救難の印で、中に電話線が通っている。午後四時、その線が繋がった。そこから四時間四十五分、海の上の人と、海の底の人が話をした。
このページは、動画で語りきれなかったこの船と、時刻と、その後を、確かめられた事実だけで辿り直すものです。
① 船を見る 🟢 確か
本編で耳にした部屋の名前は、この図の上の場所です。第四十三潜水艦は英国ヴィッカース社の設計を基にした型で、艦内は区画で仕切られていた。
② 時計を見る——通話の時刻 🟢 確か
記録に残っている時刻と、そのとき交わされた言葉です。本編で使ったのはこの一部です。
發射管室及電動機室ニ、應答アリ
生存者ハ小川機關大尉以下十六名、其他前部兵員室ニ若干名アルヲ確メタリ
呼吸が苦しくなつて山に登る様です
空氣淸淨器が六個ありますから、三人で一個の割に分配し、交代で之を吸つて居ります
演習の前に買つて貰つた懷中電燈が二個ありますが、それも段々弱くなりました
一身上に關しては何も言ふことはない。既に決心して居るから、皆様願くは國家の爲に最善の努力を頼む
唯天命を待つ
早く早く……
潜水夫をして前部水雷室及此後部電動機室の外舷を叩かしたけれども、全く應答がなかつた
聞いていた側のことも、同じ記録に書かれています。
受話機ニ就イテル者ハ殆ド堪ヘ得ナイデ、モウ代ツテ呉レ、モウ代ツテ呉レト度々交代シテ、辛クモ聞取ツタノデアル
③「後部發電機室ノ人員ヲ救助セン」 🟢 確か
救難側の記録に、こう書かれています。
然レ共、急速浮揚ノ見込……危險刻々迫ルノ狀況ニ鑑ミ、假令一部ヲ犠牲ニ供スルモ、後部發電機室ノ人員ヲ救助セン
※「見込」に続く二字は、原本の手書きが崩れており読み取れませんでした。読めない字を推測で埋めることはしていません。
この日、艦を浮かべるだけの設備は間に合わなかった。四十五人は全員が亡くなっている。
④ 光が、消える順に三回 🟢 確か
艦の機械室にいた一等機關兵曹・山口流石の紙片には、「光」が三回出てきます。書かれた順に並べると、こうなります。
光リ消エテノコリカケン
愈々光リモキユル
ヒカリナシ
最後の一行は、カタカナだけの五文字です。そこだけ、漢字が消えています。
同じ紙には、宛先の分かる言葉も残っています。「御両親様御壮健ニ」「トーナシ 上官ガ認メラレタ」「排水作業モデキン」「何モ思フ事ナシ 天運ヲマツノミ」——そして日付。「三月十九日午前九時ニ沈下ス 衝突ノ為ラシイ」。
⑤ 一か月後の机 🟢 確か
艦が引き揚げられたのは翌月、四月十九日。海の底に一か月あった紙が、その夜のうちに読まれています。読んだ人の記録が残っています。
魔海の水に浸りて、殆ど溶けんばかりに濡れし、尊むべき我將士の遺書を、其油に塗れしものは先づ幾度か之を洗落し洗落し、一枚一枚ピンセツトにて徐に硝子板の上に展べ、大形の蟲眼鏡もて、且檢らべ且判じて深更に及ぶ
電話で話していた小川昊・海軍機關大尉の遺書については、記念帖にこう書かれています。「其手帖に手探りに認めし遺書は実に精細を極む」。手帖のほかに、名刺が二枚。裏に書いてありました。
⑥ 三月二十日、世界中の公使館が同じ日に手紙を書いた 🟢 確か
この事故の弔意を集めた綴が、海軍省に残っています。表紙には「第四十三潜水艦 並 SS航空船遭難一件」とあります。同じころ、第三航空船(飛行船)も失われていて、弔意はその両方に対して来ています。
在京の公使館から届いた手紙は、日付がほぼ揃っています。ベルギー、オランダ、スウェーデン、ノルウェー——いずれも 20 mars 1924。当時の外交の公用語はフランス語で、手紙もフランス語で書かれています。
Je viens d'apprendre par les journaux la triste nouvelle des deux désastres, arrivés au sousmarin No.43 et au dirigeable No.3 新聞で知りました——潜水艦第43号と飛行船第3号の、二つの災難のことを。(オランダ公使館・3月20日)
accident qui aura le plus vif retentissement parmi le peuple marinier Norvégien この事故は、ノルウェーの海の民のあいだで、最も強く響くでしょう。(ノルウェー公使館・3月20日)
フランス大使ポール・クローデルの手紙には、インドシナ総督からも電報が来て同じ用を頼まれた、とあります。ベルギーからは、紙ではなく人が来ました。「白國皇帝陛下ノ命ヲ奉シ、侍従武官、二十六日來館、先般日本海軍ノ惨事ニ付、御見舞ノ辭ヲ述ヘシメラレタリ」。
そして日本が返した電報が、二通、連番で残っています。
貴官ハ海軍大臣ノ名ヲ以テ、英海軍本部及海軍卿ノ四十三潜水艦ニ對スル同情アル弔詞ニ對シ、〔一字消〕深厚ナル感謝ノ意ヲ可然申入ラルベシ
四十三潜水艦及S.S.航空船ニ關シ、ローズベルト次官ヨリ大臣宛丁重ナル弔詞アリシニ付、海軍大臣ノ深厚ナル謝意ヲ可然申入ラルベシ
英国あての電報には、消した跡があります。「深厚ナル」の前の一字が、塗り潰されている。礼の言葉を、書き直しています。なぜ直したのかは、紙に書かれていません。
綴の中には、海軍が自分で作った一覧も入っています。標題は「第四十三潜水艦及S.S.航空船遭難ニ對スル弔詞外人 其ノ二」。一覧は、二枚目しか綴じられていません。それでも、名前の残っている国だけで十か国を超えます。
⑦ 名前に、部屋がついている 🟢 確か
記念帖に、四十五人の名簿があります。標題は「第四十三潜水艦遭難乗員四十五士(官職名ハ殉職當時ノ等級ナリ)」。この名簿は、出身地ではなく、艦内の区画で並んでいます。
一等水兵 井原安太郎/一等水兵 安永虎雄/一等水兵 森脇三省/三等機關兵曹 笠井與市 ほか
一等兵曹 村上満/三等兵曹 長瀧鹿太郎/一等水兵 加藤秀助/一等水兵 岳野忠俊/二等水兵 本田宗秋/二等機關兵曹 田中松次/三等機關兵曹 石坂義秋/三等看護兵曹 齋藤好三/二等主計兵 藤崎勝茂
艦長心得・大尉 桑島新/先任将校・中尉 中比良義太郎/航海長・中尉 町野善雄/兵曹長 中馬勇/一等兵曹 五十川照一/一等兵曹 田中諭/二等兵曹 池川吉員/二等兵曹 遠田彌次郎/二等兵曹 松崎善次郎/三等兵曹 首坂森平/一等水兵 片岡邦雄/三等機關兵曹 大薗竹次郎
一等機關兵曹 上田種夫/一等機關兵曹 山口流石(④の紙片の人) ほか
(電話で話していた人たち)
この名簿で區まで分かるのは三十五人です。残る十人は、氏名は別の名簿で分かりますが、區の書かれた頁を、まだ見ていません。電話で話していた海軍機關大尉・小川昊は、この十人のなかにいます。ほかに市村次一、鬼塚實治、穴見儀三郎、平塚忠雄、原口儀平、久富輝、岩坪庫人、弘岡久吉、前田光一郎。
⚠️ 艦長心得・桑島新の階級は、記念帖では「大尉」、別の名簿(JACAR Ref. C08051071300)では「海軍少佐」と書かれています。どちらも、そう書かれています。理由は、どちらの紙にも書かれていません。
①の見取図と、②の通話と、この名簿は、同じ區番号で繋がります。「發射管室及電動機室ニ應答アリ」は第一區と第六區。「前部兵員室ニ若干名」は第二區。どの部屋の誰が、いつまで生きていたかが、三枚の紙を重ねると出てきます。
⑧ 四十五人のあとに書かれたこと 🟡 一つの資料による
この事故は査問会にかけられ、意見書が作られています。その末尾、「第四 其ノ他」にこう書かれています。
潜水艦ノ型式多キハ、平戰時ヲ問ハス、艦ノ能力發揮ニ障リアリ、過失發生モ亦之ニ因ルモノ少カラス
艦型ノ統一ヲ望ム
ほかに、長期間の修理改造は出動訓練を減らすこと、六箇月以上かかるものは予備艦として定員を減ずべきこと、などが書かれています。
外へは「深厚ナル感謝」を伝えよと命じ、内へは「艦型ノ統一ヲ望ム」と書いた。同じ月の、同じ役所の紙です。
⚠️ この意見書の読み下しは、現時点で一つの資料による読みです(行書・原寸での突合を続けています)。陳述録取(同じ事故の聞き取り)は、まだ見ていません。
光が消える順に、三回。最後だけ、漢字も消えていたんですね。
⑨ 出どころ
一次公文書(JACAR=アジア歴史資料センター/防衛省防衛研究所)
- 第四十三潜水艦救難作業概況 Ref. C08051138900
- 無線通信表・衝突当時ノ對勢圖 Ref. C08051138700
- 艦内見取図 Ref. C08051139400
- 遺書綴(山口流石の紙片ほか) Ref. C08051139300
- 査問会意見書 Ref. C08051138600
- 弔意の綴(大正13年 公文備考 巻34 艦船) Ref. C08051122600
- 陳述録取 Ref. C08051139000(未検分)
記念帖
- 『第四十三潜水艦記念帖』大正13年/国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/966914
著作権法第67条第1項の規定に基づく文化庁長官裁定により公開(2019/07/09)
このページの本文は、上の資料に書かれていることだけで組み立てています。原文の引用は、原本の画像と突き合わせたものです。読みが確定していない箇所には、その旨を書いています。