Archive ・ 紙片の日本史 #023 ・ より詳しく

10年、墜とせなかった
——磯崎千利の13年

大正2年(1913年)、松山に生まれた。松山中学を出て、そのまま海軍に入る。階級は4等水兵。いちばん下の入口である。

昭和8年(1933年)3月、操縦練習生の19期を終えて戦闘機の操縦者になった。そこから10年、一度も敵機を墜としていない。

腕が悪かったのではない。攻撃に行っても、迎え撃つ敵機が上がってこない。記録にはこうある——「戦運に恵まれず空戦の機会を得なかった」

このページは、本編で語りきれなかった全体像を、確かめられた事実で辿り直す場所です。どこまで確かなのかを、一つずつ添えました。

① この日、空に何機いたのか 🟢 確か

昭和18年(1943年)6月16日。この日の空にいた機数は、紙によって違う

日本側の飛行機隊戦闘行動調書(原本)には、こう書いてある。

交戦セル敵種機数 約100機

米陸軍航空軍の公刊戦史(1950年)は、同じ日をこう書いている。

日本側は推定 120機 で目標に向かった。
迎え撃つ側は、十分な事前警報を得て、全軍あわせ 104機 の戦闘機を空に上げていた。

同じ空を、両方の側が数えた。どちらも、自分が見た数である。米側の記録はこの日を「6月16日の壮大な戦い」と書いている。

🟢 日本側=戦闘行動調書の原本/米側=公刊戦史の逐語

② 同じ表に、撃墜王の名前がある 🟢 確か

この日の乙表——だれが何号機に乗り、何発撃ち、何を墜としたかを一人ずつ書く紙——に、西沢廣義の名前がある。この日はP-39を1機。

その同じ紙の、別の行に、磯崎千利がいる。F4Fを1機。

二人は同じ日、同じ部隊で、同じ空に上がっていた。片方の名前は本になり、もう片方は、この紙の中にある。

🟢 乙表の原本(300dpi目視)

③ 還らなかった人たちの、記事欄 🟢 確か

この日、6機が還らなかった。乙表には一人ずつ、記事の欄がある。書いてある人と、書いていない人がいる。

名前記事欄
大木芳男爆撃進入直前ヨリ消息不明
大宅秀平P-38×6ト交戦 以後消息不明
奥村四郎(記事なし・「未皈還」とだけ)

原本の字は「未皈還」である。皈は、帰の古い字。

このほかに3名の未帰還者がいるが、崩し字で一字が確定できないため、名前は出していない。

🟢 乙表の原本/⚠️ 3名は氏名を伏せています

④ 二週間後、同じ括弧の中で 🟢 確か

6月30日。レンドバの船団を護る任務である。乙表の第1中隊・第2小隊の欄は、こうなっている。

小隊名前被害欄
21番機磯崎千利(空欄)
22番機広森春一未皈還

同じ小隊の、隣の機である。

そしてこの日、6月16日に指揮官として出撃していた大野竹好も、還らなかった。別の中隊の、1番機の欄である。

磯崎の欄だけが、空いている。

🟢 乙表の原本(第1中隊・第2中隊とも原寸で確認)

⑤ 名前の字が、揺れている 🟢 確か

同じ綴の中で、字が変わる。

二週間しか離れていない。書いた人が違う。

戦闘行動調書は、飛んで帰ってきたあとに、その日の当直がまとめる紙である。だから、字が変わることがある。

🟢 両方とも原本で確認

⑥ 210空という、書かれていない部隊 ⚪️ 分からない

戦後の航空戦史書(1971年刊)に、磯崎の顔写真が載っている。そのキャプションには「210空時代」とある。

ところが、同じ頁の経歴には、210空が出てこない。竜驤、霞空、加賀、12空、台南空、251空、343空——210空は、どこにもない。

理由は分からなかった。分からないまま、置いておく。

⚪️ 出どころが分からないもの

⑦ 岩本徹三を教えた側にいた 🟡 一つの資料による

霞ヶ浦の友部分遣隊で、磯崎は教える側にいたと伝わる。教わった側に、岩本徹三の名前がある。のちに撃墜王と呼ばれる人である。

同じころ、大宅秀平も教える側にいた。6月16日に「P-38×6ト交戦 以後消息不明」と書かれた、あの人である。

🟡 出典が一つだけのもの。伝えられている話として置きます。

⑧ 同じ見開きの、もう一人 🟢 確か

磯崎の顔写真の隣に、もう一人の写真がある。佐々木原正夫

大正10年、青森県生まれ。昭和16年9月に飛練を出て、空母翔鶴の乗組。ハワイ、インド洋、珊瑚海、アリューシャン、第二次ソロモン——次々と出撃した人である。

この人も、生きて終戦を迎えた。

同じ見開きに、10年墜とせなかった人と、次々に出撃した人が、並んでいる。

🟢 誌面の記述

⑨ 8時間10分と、1,608キロ 🟢 確か

6月16日の甲表には、時刻の欄がある。

0920零戦30機 ブカ発進
1005ブイン上空で合同
1215爆撃
1235追空戦
1730零戦24機 ラバウル帰着

出てから帰るまで、8時間10分。30機で出て、24機で帰った。

航跡をつないで測ると、約1,608キロ。東京から那覇までとほぼ同じ距離である。

単座の戦闘機で、それだけ飛んで、途中で戦っている。

🟢 甲表の原本/距離は航跡からの実測

⑩ 写真で見る

⑴ 飛行機隊戦闘行動調書

その日、だれが何号機に乗り、何発撃ち、何が還らなかったかを、一人ずつ書く紙。

⑵ 人と、場所

いずれも「同じ時期・同じ場所」の写真です。6月16日その日の写真は、日米どちらにも残っていません。

⑶ 紫電・紫電改

磯崎が最後にいた部隊の機である。いずれも、松山や国分で撮られたものではない。

⑷ 階級の階段

磯崎個人の日記も手紙も、残っていません。残っているのは、階級が上がっていった記録です。

出典と確度

一次資料

二次資料

写真

▶ 本編を見る(紙片の日本史 #023)
← 蔵の目次へ

🟢=一次資料で確かめたもの/🟡=出典はあるが一つだけのもの/⚪️=出どころが分からないもの