蔵 ・ 紙片の日本史 #017 ・ より詳しく

敵の手紙を運んだ、二人の捕虜
——硫黄島、一九四五年三月の十二時間

一九四五年三月、硫黄島。アメリカ第三海兵師団の司令部で、少将が一通の手紙を書きました。宛先は、日本側の守備隊です。運んだのは米兵ではありません。捕虜になっていた、二人の日本兵でした。

このページは、動画(第十七話)では置ききれなかった逐語と、そのうしろにある事実を、確かめられた範囲でたどり直すものです。米側の記録(Bartley『Iwo Jima: Amphibious Epic』一九五四年・米海兵隊公式戦史)と、日本側の記録(JACAR 所蔵の作戦記録)の、両方から引きます。

この島で起きたこと——十二時間半の全体像

昭和二十年(一九四五年)三月、硫黄島。組織的戦闘の終わりが近づくなか、米軍は洞窟に立てこもる日本軍部隊へ、日本語の降伏勧告の手紙を送ることにした。運び手に選ばれたのは、捕虜になっていた二人の日本兵。宛先は、二人が元いた部隊の連隊長だった。

朝に米軍の陣地を出て、味方の陣地へ——つまり、撃たれるとすれば味方からという道を歩き、十二時間半後に戻ってきた。手紙が連隊長に届いたのかどうかは、日米どちらの記録にも無い。そして二人の名前も、どちらの記録にも残っていない。

以下は、この十二時間半をめぐって確かめられたことの一覧。本編で語りきれなかった細部を、確度のラベルつきで置いています。

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原文で読む——米側の紙

この十二時間半は、アメリカ海兵隊の公刊戦史(Bartley, Iwo Jima: Amphibious Epic, 1954)に書かれています。米政府の職務著作で、パブリックドメインです。日本語の記述は本編と上の章で書きましたので、ここには原文をそのまま置きます。読み比べられるように、訳を添えます。

⚠️この話のもとは帰ってきた二人への尋問記録です。「そう報告されている」という距離は、原文のほうにも残っています——たとえば「場所を知っていると称した」のように。

① なぜ、連隊長あてだったのか 🟢 確か

Believing that General Kuribayashi might feel himself personally committed against surrender, the 3d Division Commander addressed an appeal to the commanding officer of the 145th Infantry Regiment

栗林中将は、降伏しないことに自ら身を委ねていると感じているだろう——そう考えて、第三海兵師団長は、歩兵第百四十五連隊の長あてに呼びかけを書いた。

② 二人は、自分の判断で無線を切った 🟢 確か

After a few transmissions during the morning, the Japanese couriers discontinued use of the radio for fear it might jeopardize their security.

朝のうちに数回送ったあと、二人の運び手は、身の安全が危うくなることを恐れて、無線を使うのをやめた。

Breaking radio silence for the first time since morning, the two contacted "Smith-Chui", reporting that they were on the way back.

朝から初めて沈黙を破って、二人は「スミス中尉」を呼び出し、帰る途中だと伝えた。

切ったのも、また繋いだのも、二人の判断です。敵地のただ中で、外とつながっている唯一の線でした。

③ 道の途中 🟢 確か

One of them stopped to rest his wounded leg, but the other continued the journey.

一人は傷ついた足を休めるために止まり、もう一人は先へ進んだ。

Six hours after starting the trip

出発から六時間後。

④ 司令部の入口で 🟢 確か

gave General Erskine's message to one of the headquarters guards … Half an hour later the guard returned … muttered something about conferring with the general … he beat a quick retreat from the cave

エスカイン将軍の手紙を、司令部の衛兵のひとりに渡した。……三十分後、その衛兵が戻ってきた。……将軍と相談するというようなことをつぶやいた。……彼は急いで洞窟を出た。

⚠️手紙の文面は、この公刊戦史にも引用されていません。このページも出しません。

⑤ 帰りついてから 🟢 確か

re-entered the Marine lines in the 5th Division zone of action at 1830

十八時三十分、第五海兵師団の戦区で、海兵隊の線内に戻った。

considerable difficulty in explaining what two Japanese were doing with a walkie-talkie

日本人が二人、無線機を持って何をしているのかを説明するのに、ひどく苦労した。

⑥ 届いたかどうか 🟢 確か

whether or not the message ever reached Colonel Ikeda will never be known

その手紙が池田大佐のもとに届いたのかどうかは、ついに分からない。

General Kuribayashi and his staff had joined Ikeda in the latter's cave on March 16

栗林中将と幕僚は、三月十六日に、池田の洞窟で合流していた。

出典=Bartley, Iwo Jima: Amphibious Epic(U.S. Marine Corps, 1954)。米政府の職務著作=パブリックドメイン。⚠️Bartley の典拠は三月十八〜十九日の報告書です。日本側の記録(下)と日付の対応を主張はしません。「同じころ」までです。

原文で読む——日本側の紙、四日分

日本側にも記録が残っています。「硫黄島作戦記録」——アジア歴史資料センターで原画像が公開されています。日付ごとの短い記録が縦に並ぶ帳面で、三月十四日から十七日までの四日分が、一枚に収まっています。

硫黄島作戦記録・誌面0404 🟢
三月十四日
一部ノ米軍ハ北地區陣地ニ進入ス
現在兵力約九〇〇
本日軍旗ヲ燒却ス
戰果 殺傷 五三〇 戰車 五 MG 一〇 小銃 七〇

三月十五日
北地區右第一線兵力約一〇〇名

三月十六日
現在總兵力約八〇〇、最後ノ無電アリ

三月十七日
全力ヲ以テ反擊決行、爾後消息不明
戰果總計

出典=アジア歴史資料センター Ref. C22110003500(誌面0404)。⚠️「戰果」の数は、この記録が書いている数です。⚠️縦組みの漢数字は桁を読み違えやすいため、原画像を拡大して一字ずつ確かめています。

「本日軍旗ヲ燒却ス」は、この一行だけです。上は兵力の数、下は戦果の数。そのあいだに挟まっています。

そして三行下、三月十六日に「最後ノ無電アリ」。——このページの②で見たとおり、二人の運び手はその前に、自分たちの無線を切っています。

この蔵だけの一行——「奉レリ」と、「燒却ス」

軍旗を始末したことを、記録はどう書いているか。この番組は、二つの島の紙で、同じ場面を読んでいます。

「處置し奉れり」には敬語があります。「燒却ス」には、ありません。四か月ちがいの、別の島の、別の部隊の紙です。

どちらが正しい書き方か、という話ではありません。同じことを書くのに、紙によって言葉が違う——それだけを、ここに置いておきます。

ペリリューの紙を読む(#015の蔵)→

確かめられたこと・確かめられなかったこと

① なぜ、連隊長あてだったのか 🟢 確か

手紙の宛先は、総指揮官の栗林中将ではなく、歩兵第百四十五連隊長の池田大佐でした。なぜか。米側の記録は、その理由をこう書いています。

Believing that General Kuribayashi might feel himself personally committed against surrender, the 3d Division Commander addressed an appeal to the commanding officer of the 145th Infantry Regiment

——将軍は、降伏に対して個人として引くに引けない立場にいるだろう。そう考えて、あえて連隊長のほうに宛てた、というのです。敵の将軍の、心の中まで読もうとしている。

② 二人は、自分から無線を切った 🟢 確か

二人が持たされたのは、煙草と、食料と、携帯無線機でした。米兵はついていきません。戦場のただ中へ、二人だけです。

After a few transmissions during the morning, the Japanese couriers discontinued use of the radio for fear it might jeopardize their security.

朝のうちに数回、報告を送ったあと、二人は身の危険を感じて無線をやめたと書かれています。

考えてみてください。日本兵が、アメリカ軍の無線機で、アメリカ軍と交信している。その姿を、味方に見られたら、どうなるか。二人にとっては、味方に会うことが、いちばん危なかったのです。敵地のただ中で、繋がっていられる唯一の線を、彼らは自分から切りました。

③ 呼びかけていた相手の名は「スミス中尉」 🟢 確か

ここは、動画では置ききれなかった一行です。二人が無線で連絡を取る相手には、呼出符号がありました。

maintain contact with 'Smith-Chui,' the 3d Division Language Section

「スミス中尉」。第三海兵師団の、日本語班のことです。“Chui” は、日本語の「中尉」。日本語を話す捕虜が、日本語で呼びかける相手だから、そういう呼び名になっていました。

紙目(かみめ)

……敵の部隊なのに、日本語の階級で呼ぶんですね。呼んでいるほうも、呼ばれているほうも、日本語で。

帰り道になって、二人は朝から初めて沈黙を破ります。「いま、戻る」——その相手も、この「スミス中尉」でした。

④ この連隊は、サイパンに行くはずだった 🟡 一つの資料による

二人がいた歩兵第百四十五連隊は、鹿児島で編成された連隊です。約三千名が、昭和十九年の七月から十月にかけて、順次この島へ渡りました。

連隊戦史には、こう書かれています——最初はサイパンに進出する予定のところが間に合わず、硫黄島行きになった、という経緯があった、と。この一文は今のところこの一冊でしか確かめられていませんので、そのつもりで読んでください。

島を守っていたのは小笠原兵団(第百九師団)で、陸軍がおよそ一万三千、海軍がおよそ七千。そのうち歩兵の連隊は、この一四五連隊ひとつきりでした。あとは独立した大隊と、戦車と、大砲の部隊です。

⑤ 手紙を書いた側も、別の島から来ていた 🟢 確か

いっぽう、手紙を書いた第三海兵師団にとっても、硫黄島が最初の島ではありませんでした。ブーゲンビル(一九四三年)、グアム(一九四四年)、そして硫黄島(一九四五年)。南の島を、ひとつずつ北へ来ています。

鹿児島の連隊は、サイパンのはずが、この島へ。南から北上してきた師団も、この島へ。両方とも、別の島から来て、ここで出会いました。そのうえで、片方の捕虜が、もう片方の手紙を持って歩くことになります。

⑥ 帰りついた場所は、出発した場所ではなかった 🟢 確か

午後六時半。男はアメリカ軍の戦線にたどり着きました。ただし朝出発した場所ではなく、別の師団が守る、離れた場所にです。そこで待っていたのは、質問でした。

considerable difficulty in explaining what two Japanese were doing with a walkie-talkie

——無線機を持った日本人が二人、ここで何をしているのか。それを説明するのに、たいへん苦労した。行きは命綱だった無線機が、帰りは疑いの種になっています。

⑦ 捕虜の数は、日米で食い違っている 🟡 資料により異なる

この島で捕虜になった日本兵について、記録の数字は揃っていません。

近い数字ですが、一致はしません。どちらかが正しいという書き方は、ここではしないでおきます。

⑧ そして、両方の記録が同じ言葉で終わっている 🟢 確か

日本側の記録には、三月十四日に軍旗を焼いたこと、三月十六日が最後の無電だったこと、三月十七日に「爾後消息不明」となったことが、同じ一頁に並んでいます。あの手紙が運ばれたのは、ちょうどこの、記録が途切れていく日々のことでした。

では、手紙はどうなったのか。日本側の記録を端から端まで読んでも、手紙のことは一行も書かれていません。そして米側の記録は、こう結んでいます。

whether or not the message ever reached Colonel Ikeda will never be known
紙目(かみめ)

両方の記録が、同じ「分からない」で終わっているんですね。

この十二時間のことが分かっているのは、帰ってきた二人が、そう語ったからです。二人の名前は、どちらの記録にも残っていません。

⑨ 出どころ

▷ 本編(第十七話)を見る