名台詞ばかりが残っている
——上村彦之丞
嘉永2年(1849年)、薩摩に生まれた。日清・日露、二つの戦争を戦い、渾名を船乗り将軍という。
この人には、面白い話がたくさん残っている。酒。無心。戦場でまゆ一つ動かさない。握手の発明。英語をひとことだけ覚えて、間違えたまま押し通す。
ただ、そのほとんどはそばで見ていた人の証言である。語った人がいて、書き留めた人がいて、そうやって残った。
このページは、本編で語りきれなかった全体像を、確かめられた事実で辿り直す場所です。どこまで確かなのかを、一つずつ添えました。
① 若い頃 — 酒と、無心と、遊郭 🟢 確か
海軍に入った頃、同期に山本権兵衛がいた。のちの海軍大臣である。明治44年(1911年)の人物評論に、こうある。
當時山本も上村も年少氣鋭にして盛に飲み盛に遊び、金に窮すれば則ち相攜へて鄕の先輩故伯吉井友實を訪ひ百方辯を設けて金を請ひ、之を得れば直に北里南廓に遊びて流連荒亡す
先輩に理屈をつけて金をもらい、もらったその足で遊郭へ行く。ある日、先輩の家で権兵衛の兄と鉢合わせた。兄はひとことだけ言った。
好か處へ行くから金が足らぬのぢや、アンマイ阿呆盡すと碌な者にならぬぞ
鹿児島の言葉のままである。続きはこう書かれている。
二者乃ち慙悔して漸く行ひを悛むるに至る
🟢『薩の海軍・長の陸軍』(明治44年・1911年)頁46-47
①' 一度、海で死にかけている 🟢 確か
明治10年(1877年)、西南戦争の報せを受けて九州へ急ぐ途中のことである。
雲揚艦に轉じ九州に急行中、端なく紀州沖に於て本艦破壞の厄に遭遇し、乗組士官の多くは命を海底に隕したるも、彼は天佑か人佑か九死の中に一生を得たる三士官の一人なり
乗り組んだ士官の多くは、そのまま海に沈んだ。助かった士官は三人で、その一人だった。
海で死にかけた人が、二十七年後、海から六百二十六人を引き上げている。そのことを本人が言い残した記録は、見つかっていない。
🟢 同 頁47
② 踊れない司令官が、踊った 🟢 確か
明治35年(1902年)、オーストラリアのフリーマントル。日本の艦隊を迎える大夜会が開かれた。
待構へたる數千の男女は一齊に得意のダンスを始めた
司令官は踊れない。進めば踊れないことが知れ、退けば夫人に恥をかかせる。部下は手に汗を握って見ていた。
將軍は竟に奮然としてベ夫人の手を取り、泰然自若として
手振りも足拍子も、立派に合っていたという。夫人は「大層御上手です」と言った。後日、よくもあのとき踊りましたねと讃められて、この人はこう答えている。
何糞と思つて、御國の爲に身體を動かした許りだよ
🟢『海軍逸話集』(昭和5年・1930年)頁52-54
本編で触れなかったこと — 卓上の研究
この舞踏会の前、司令官は士官たちの稽古を熱心に見ていた。同じ本にこう書かれている。
司令官も士官の稽古を熱心に見物して居られ、マッチ軸木の黑塊の有る方を男とし、無き方を女と假定して、舞踏配置を卓上に研究されつゝあつたのである
マッチの軸木を並べて、男と女に見立てていた。踊れないまま、当日を迎えたわけではない。
🟢 同 頁52-54
③ 弾に頭を下げるな 🟡 一つの資料による
日清戦争、黄海の海戦。軍艦秋津洲の艦長だった。
上村は膽氣人に絕し、戰に臨むや身を敵彈雨飛の間に暴露して一睫一眉も動かさず
弾の音が鳴るたび、水兵たちは無意識に頭を下げる。それを見て、艦橋から叱った。
敵に禮するは卑怯なり
⚠️ ただし、この一喝は原文が「と云ふ」で結ばれている。書いた人自身が、伝え聞きとして書いている。
🟡『薩の海軍・長の陸軍』頁51(原文が伝聞形)
④ 各自の睾丸を檢すべし 🟢 確か
日露戦争。いよいよ敵と撃ち合うというとき、兵を艦上に集めて言った。
日露戰爭に於ても第二艦隊の將に敵と砲火を交へんとするや、彼れ衆を艦上に會して曰く「各自の睾丸を檢すべし。日常の如く垂下せる者は戰に勇なるを見るべく、釣上れる者は心に憶する處あればなり」と。上村の睾丸演説と云へば一時海軍部内の好話柄なりき
普段どおり垂れている者は戦に勇敢、縮み上がっている者は心に怖じけがある——という理屈である。「上村の睾丸演説といえば、海軍部内の有名な話だった」と、本人の存命中に刷られた本が書いている。
🟢 同 頁51(明治44年=本人存命中)
本編で触れなかったこと — 彦之丞の身體は
同じ頁に、もう一つ書かれている。
我艦は彦之丞の身體は敵彈命中せざるなり
常々そう言っていた、とある。
🟢 同 頁51
⑤ 行状四等の水兵 🟢 確か
軍艦相模の検閲の日。列の外に、一人の水兵が立たされていた。素行の評価がいちばん下——四等行状である。階級ではない。
列外に立てる四等行狀の一水兵の前面に至られし時、突然歩を停めて、「どんな過失があつて四等行狀になつたのか」と艦長に問はれた
長官は稍〻暫らく無言の儘にて其の水兵を見詰めて居られた後、謹嚴なる態度と莊重にして底力ある言辭とを以て、徐ろに訓誨されて曰く
そのあと、水兵はこうなった。
水兵は此の訓言を聞ける瞬時、宛かも電氣にでも撃たれた樣に全身をぶるぶるつと振はし、感涙に噎びながら、肺腑より絞り出した樣な音聲で唯「はい」と答へた
🟢『海軍逸話集』頁59-60
本編で触れなかったこと — 夫は一體誰の罪だらうか
幕僚が雑談していたときのこと。話が長官室の植木掛の下士の身の上に及び、みなが口をそろえてその素行を批難した。上村は黙って聞いていたが、話が終わると笑って言った。
談偶〻長官室の植木掛下士の身の上に及んだ。皆々異口同音に彼が素行を批難した。上村長官は初めより默つて聞いて居られたが、談終るや呵々と笑つて曰く「夫は一體誰の罪だらうか」と。一座默して誰も應ふる者が無かつた
🟢 同 頁61
⑥ 病室と、誠意から出た嘘 🟢 確か
ある艦でパラチフスが出たときのことである。
或時某艦に多數のパラチブス患者が發生して、其の疑似患者と共に七十餘名を大湊要港部の陸上に隔離した事がある
そして、病み上がりの部下には、いつもこう挨拶していた。
病氣の爲に轉地せし人が全治歸艦せる場合に、上村將軍は何時でも次の樣な風に挨拶された
🟢 同 頁61-63
⑦ 露探と呼ばれた日々 🟢 確か
日露戦争。第二艦隊はウラジオストクの敵艦隊を追う任務についたが、捕まえられない日が続いた。同時代の本が、その厳しさをこう書いている。
(上村は)一再ならず浦鹽艦隊を逸し、全國民の頭腦に一大遺恨を深く印したるのみならず、我海戰史の上に拭ふべからざる不祥の記錄を殘せり。幸ひにして第二期戰に於て何程か名譽を恢復したれど、若し之なければ切腹するの外なかりしならん
留守宅には、毎晩石が飛んだ。昭和7年(1932年)の講演録に「每晩石が飛んだ」とある。
🟢『薩の海軍・長の陸軍』頁50/🟢『我国の農業恐慌と其の打開策』東郷実 述(昭和7年・1932年)頁436
我慢は、我慢よ
当時の参謀が、のちに書き残している。将軍は、罵られていることを全部知っていた。それでも、釣りをし、運動会を催し、山に登り、部下の士気を守った。疲れませんか、と聞いた参謀に。
草臥れることは草臥れるが、我慢は我慢よ
🟢『国難に叫ぶ』(昭和7年・1932年)頁58-59
⑧ 六百二十六名ヲ收容セリ 🟢 確か
明治37年(1904年)8月14日、蔚山沖。海軍軍令部が編んだ公式の記録に、その日のことが書かれている。第六章の、いちばん最初の頁である。
明治三十七年八月十四日蔚山沖ノ海戰ニ參加シタル我カ艦艇ハ…常磐、磐手ノ四裝甲巡洋艦及ヒ通報艦千早…
始シ、十時五分ニ至リテ止ム、而テ敵艦「ロシーヤ」「グロモボイ」…浦鹽斯德ニ向ヒ逃走シ、「リユーリク」ハ…戰隊ノ砲撃ヲ受ケテ、十時三十八分頃ニ至リ沈没ス、
艇鷗、蒼鷹等ト共ニ、溺者救助ニ從事シ、六百二十六名ヲ收容セリ
撃った相手を、その日のうちに六百二十六人、海から引き上げている。鷗と蒼鷹は、水雷艇の名前である。
🟢「明治三十七八年海戦史 第七部 醫務衞生」280頁(アジア歴史資料センター)
救助は、号令ではなく工程だった
同じ本には、そのあと各艦が何をしたかが、一枚ずつ書かれている。浪速はリューリクが沈むや救助艇を出して134人。高千穂は193人を助け、夜のうちにそのすべてを常磐に移した。
吾妻は風呂場を治療所にした。前の治療所は補助艦室に、後ろの治療所は別の場所に移している。磐手は砲塔に敵弾を受けて多くの死傷者を出した艦だが、そのあとで敵兵26人を収容した。
夜、艦から艦へ負傷者が渡されていく。翌朝には、敵の負傷兵の包帯を替えた、とある。
🟢 同 第六章
同じ本に、日本側の死者も
その同じ本には、日本側の死者も一人ずつ名前で書かれている。巻の名前は「醫務衞生」——手当ての記録である。
🟢 同
⑨ 手のひらを返した世間 🟢 確か
軍歌が作られた。明治43年(1910年)の学校の軍歌集に、「第百十九 上村將軍」として載っている。
捨てなば死せん彼等なり 救助と君は叫びける
見捨てれば死ぬ者たちだ、救助せよと君は叫んだ——という歌である。石を投げた世間が、数年後には、救助を学校で歌わせていた。
🟢『新定学校軍歌集』(明治43年・1910年)コマ64/⚠️「本人は嫌っていた」は⚪️=出どころが分からない
⑩ 東鄕を以て春の如しとせば 🟢 確か
明治44年(1911年)の人物評論は、東郷平八郎と並べて、この人をこう書いた。
上村は膽勇の人にして少しく智を兼ぬ
精悍の氣眉宇の間に満ち、興一たび臻れば氣焔口を突て出づ
東鄕を以て春の如しとせば、上村は秋の如し
大正5年(1916年)8月8日に亡くなった。
🟢『薩の海軍・長の陸軍』頁52
⑪ 写真で見る
いずれも保護期間の満了した資料です。
⑴ 人
⑵ 公文書
⑶ 艦
⑷ 紙
⑫ 諸説・確かめられなかったこと
「敵ながら天晴れ」の命令 ⚪️ 分からない
敵ながら天晴れである、生存者は全員救助せよ——そう命じた、と広く伝えられている。ただし、この言葉が書かれた資料は見つかっていない。命令の言葉は確かめられていないが、救助そのものは公文書に書かれている。
妻の寺参り 🟡 一つの資料による
夫が「露探」と呼ばれていた頃、妻は毎日寺に参って、敵艦隊の発見を祈願していた——そういう話がある。戦後の本にそう書かれていると伝わるが、その本を確かめられていない。
賊軍の藩から参謀を選んだ 🟡 一つの資料による
参謀には、かつて敵として戦った庄内藩・米沢藩・会津藩の出身者を選んでいた、と伝わる。副官の一人は会津松平家の当主だったともいう。こちらも、出どころの資料を確かめられていない。
軍歌を嫌っていた ⚪️ 分からない
本人はこの軍歌を嫌っていた、と伝わる。軍歌が作られ、学校の軍歌集に載ったことは確かであるが、本人がどう思っていたかを書いた資料は見つかっていない。
救助した人数 🟢 確か
627人と書かれていることがある。海軍軍令部の公文書は六百二十六名である。
⑬ 出典
- 『海軍逸話集』(昭和5年・1930年)=国立国会図書館デジタルコレクション
- 『薩の海軍・長の陸軍』(明治44年・1911年)=同
- 『我国の農業恐慌と其の打開策』東郷実 述(昭和7年・1932年)=同
- 『国難に叫ぶ』(昭和7年・1932年)=同
- 『新定学校軍歌集』(明治43年・1910年)=同
- 「明治三十七八年海戦史 第七部 醫務衞生」=アジア歴史資料センター
- 「第二艦隊戦時日誌」=同
- 写真=Wikimedia Commons
引用はすべて原文ママです。旧字・歴史的仮名遣いも紙面のままにしています。
🟢=一次資料で確かめたもの/🟡=出典はあるが一つだけのもの/⚪️=出どころが分からないもの