蔵 ・ 紙片の日本史 #018 ・ より詳しく

百日守った山と、その記録
——拉孟、一九四四年六月から九月

中国の雲南省に、拉孟という山があります。ビルマから中国の奥へ物資を運ぶ道を、真上から見下ろす場所です。一九四四年六月、怒江を渡ってきた中国軍に囲まれ、山は百日もちました。守っていたのは千二百人ほど(資料によっては約千三百名)。囲んだのは、およそ四万でした。

このページは、動画(第十八話)では置ききれなかった逐語と、そのうしろにある事実を、確かめられた範囲でたどり直すものです。一次資料(アジア歴史資料センター所蔵の作戦記録)と、査読論文(遠藤美幸「戦場の社会史——ビルマ戦線と拉孟守備隊 1944年6月-9月」三田学会雑誌)の両方から引きます。食い違っているところは、食い違ったまま置きます。

この山で起きたこと——百日の全体像

昭和十九年(一九四四年)六月、中国・雲南省。怒江の西岸にそびえる拉孟(中国名・松山)の陣地は、渡河してきた中国遠征軍に囲まれた。守っていたのは、拉孟守備隊。およそ千二百人(資料により約千三百名)。囲んだ側は、延べおよそ四万。

山は三か月の砲撃に耐え、九月七日に落ちた。陸軍が戦後にまとめた「拉孟守備隊戦闘経過概要」の最後の行には、こう書かれている。

戦闘経過概要・最後の行 🟢
軍旗を奉焼し、同日一八〇〇、全員壮烈なる戦死を遂げたり

けれど、その二時間前に山を降りた人たちがいる。この紙を書けたのは、その人たちが帰ってきたからだ——というのが本編で辿った話である。以下は、その記録をめぐって確かめられたこと、確かめられなかったことの一覧。

写真で見る

原文で読む——日本側の紙

この山について、日本側にも記録が残っています。「一九四四年の怒江作戦記録」——第五十六師団の参謀長が、戦後にまとめたものです。国立国会図書館で公開されています。

以下は、その誌面から一字ずつ読み取った逐語です。読み下しは付けず、原文のまま置きます。

① 命令——何のために死守するか 🟢 確か

怒江作戦記録・誌面42
ビルマ方面軍主力の作戦及支那大陸「と」号作戦に策応すべき任務を以て、拉孟、騰越、平戞及龍陵、芒市地区の各要域は飽く迄之を確保するに決し、各守備隊に対し「現陣地を死守敢闘して師団主力攻勢の支撑たるべき」命令を下達せり

支撑(しとう)=支えること。拉孟は、拉孟を守るためではなく、主力の攻勢を支えるために死守を命じられています。

② その同じ六月に、見込みは絶えている 🟢 確か

同・誌面41
六月下旬に於てはコヒマ方面を放棄し、戦況我に有利ならず、作戦成功の見込全く絶えたり。

インパールが崩れ、北ビルマの戦線も見込みが絶えた——と同じ記録が書いている、その同じ六月に、拉孟には「支撑たるべし」が下りています。

③ 何で戦っていたか 🟢 確か

同・誌面38
守備隊は陣内所有の全弾薬を蒐集調査し、特に遺棄兵器及弾薬を悉く活用しありたるも、弾薬特に小銃弾、手榴弾及十榴弾発信管は全く欠乏し、主として銃剣に依り主陣地を確保せり。

発信管が無い=砲弾があっても撃てない、ということです。そして「主として銃剣に依り」。
この一行は、別の資料が別の言葉で同じことを言っています。七月二十八日に出た感状には「或ハ礫石ヲ投ジ」とあります。石を投げた、と。二つの資料は、たがいに引き写したものではありません。

④ 囲んだ側が、渡ってきた量 🟢 確か

同・誌面39
二十八日概成し、自動貨車約五〇〇輌、重砲兵四門渡河せるものの如し。
敵は七月四日包囲態勢を整ひつつ攻撃を再興し、火焔放射器・黄燐弾「ロケット」弾等各種戦闘資材を挙げて日夜反復来攻せるも、守備隊は主陣地を確保し敵に大なる損害を与へたり

怒江には橋が架け直され、貨車五百輌と重砲が渡っています。「写真で見る」に置いた吊り橋の写真は、その渡河の場所です。

⑤ 六月二十日、囲む側の部隊が入れ替わっている 🟢 確か

同・誌面38
新編第二十八師と交代し、六月二十日 新に栄誉第一師・第一〇三師現出し、飛行機観測に依る砲撃支援下、反復来攻せり。

囲む側は、部隊を交代させながら攻めています。そして飛行機で見ながら撃っていました。

この蔵だけの一行——残っている紙は、あとから書かれている

その「怒江作戦記録」のいちばん最初の頁に、註が付いています。

同・冒頭の註 🟢
一、本記録は第五十六師団参謀長 元陸軍大佐 川道富士雄 が、同師団参謀 元中佐 永井滑雄 の援助に依り作製す。本記録の出所は、記案擔任者が分散せる断片的資料を蒐集し、且つ当時の記憶を回想せるものとす。

公式の記録が、冒頭で「これは断片と記憶で書いた」と断っています。

ここまでで、拉孟について残っている日本側の紙を並べると、こうなります。

山の上にいた三か月のあいだ、誰も書いていません。残っているのは、外に出た人の報告と、あとから記憶で書かれた記録です。本編で「この紙を書けたのは、降りた人たちが帰ってきたからだ」と言ったのは、この意味です。

紙目(かみめ)

……中にいた人の字は、一枚も残っていないんですね。

確かめられたこと・確かめられなかったこと

① 「拉孟」という地名は、人事の記録に一度も出てこない 🟢 確か

陸海軍人事関係のデータベース、およそ一万七千七百五十ページを地名で検索すると、こうなります。

騰越は、拉孟から五十キロほど北にある町です。同じ夏、同じ作戦のなかで、同じように囲まれ、同じように終わっています。その騰越は出てくるのに、拉孟は一度も出てきません。

② 守備隊長の経歴表は、二行で終わっている 🟢 確か

拉孟の指揮をとった金光惠次郎(かねみつ えじろう)と、騰越の蔵重康美を、記録の上で並べるとこうなります。

紙目(かみめ)

……隣の町の人には書いてあって、こっちには書いていないんですね。

金光については、論文の注にこう書かれています——「一兵卒から叩き上げで少佐まで上りつめた」。学校を出ていない指揮官が、四十八歳で、この山にいました。

③ 前の大隊長は、内地へ移っていた 🟡 並び順から推せるだけ

金光の前にこの大隊を率いていたのは、田島昌治という人です。鹿児島の出身で、金光より十五歳年下。陸軍士官学校を出ています。

その経歴表には、昭和十八年十二月二十四日、熊本陸軍幼年学校の生徒監と書かれています。内地です。そして没年の欄が、空いています。

※ 金光が田島の後任だと断定はできません。就任日が空欄のため、大隊長の並び順から推せるだけです。

④ 軍旗を残して出て行った人が、外から「焼け」と命じている 🟢 確か

この連隊の長は、松井秀治(まつい ひでじ)といいます。拉孟を出て、そのまま戻れなくなった人です。山に残った眞鍋大尉(副連隊長)あてに、外から二度、打電で命じています。

手紙も、日記も、焼け、と書かれています。この山から紙が残りにくいことには、理由がありました。

⑤ 紋章は、二度埋められている 🟢 確か

軍旗は、布と、棹と、棹の先の菊の紋章とに分かれます。記録に残っているのは、こうです。

布は体に、紋章は土の中に。そして紋章だけが、二度埋められています。どこに埋めたかは二度とも記録に残っていますが、なぜ埋め直したのかは、書かれていません。

⑥ その旗が焼かれたのかどうかは、記録が食い違う 🟡 記録により異なる

公刊戦史には、九月七日に横股陣地の砲兵掩蓋の中で軍旗を焼いたと書かれています。いっぽう、山から降りて生き残った早見正則という上等兵は、眞鍋大尉がそのとき軍旗を襷に掛けて陣地を出て行くのを見たと語っています。

焼かれたのか、身につけたまま出たのか。どちらが正しいかは、ここでは書かないでおきます。

⑦ 「全員戦死」の時刻も、揺れている 🟡 記録により異なる

一次資料には「同日一八〇〇、全員壮烈なる戦死を遂げたり」とあります。これは公式の書き方です。同じ日について、早見はこう語っています。

そして、誰がその脱出を命じたのかも、資料によって違います。論文は「木下中尉は金光守備隊長の命令により陣地を脱出した」と書き、別の資料は眞鍋大尉が部下を脱出させたと書いています。

⑧ そのあとを、生きた人たち 🟢 確か

二〇〇九年の時点で、この山から降りた人のうち二人が存命でした。

外から「焼け」と命じた松井秀治は、拉孟が落ちるより前の八月一日に少将になり、戦後二十一年を生きて、昭和四十一年に亡くなっています。一九五七年に、自身の回顧録を出しました。

紙目(かみめ)

……九月七日に、毎年。福岡から。

なお、旗を最後まで腹に巻いていた眞鍋邦人 大尉については、名前の読み方が確かめられていません。人事関係の資料にも、書誌にも、論文にも、ふりがなが見つかりませんでした。

⑨ 出どころ

▷ 本編(第十八話)を見る