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藤田怡与蔵
藤田怡与蔵
少佐 海軍戦歴
中国山東省生まれ・大分県杵築中学校→1938.9海兵66期卒→1940.6第33期飛行学生教程終了→1941.9蒼竜乗組→1941.12.8真珠湾攻撃、第2次攻撃隊制空隊小隊長として初陣→帰投会合点への集合途中でP-35編隊と空戦、1機撃墜後被弾しながら母艦帰還→本土帰投後大尉進級→ダーウイン・インド洋攻撃参加→1942.6ミッドウェー海戦出撃、母艦上空直衛機としてB-26編隊に突進し3機撃墜、着艦給油後再発艦して雷撃機4機・戦闘機3機撃墜→対空砲火で被弾・落下傘降下、駆逐艦野分に救助→飛鷹分隊長発令→1942.10ソロモン戦場出撃(ラバウル・ブイン進出)→1943.4「い」号作戦参加でラバウル進出→1943.6築城空転属→1943.11新編301空飛行隊長→硫黄島防空戦闘→紫電で編成された戦闘402飛行隊長転属→341空編入、1944.10台湾沖航空戦出撃→比島戦線で苦闘、1945.1本土後退・福知山基地で終戦
ミッドウェー海戦で1日あたり最高撃墜記録(奥村・岡部と並ぶ)を樹立、戦後は日本航空の機長として復帰した
- 所属
- 蒼竜(真珠湾第2次制空隊小隊長)→飛鷹→301空→341空
- 撃墜の記録
- ミッドウェー海戦での撃墜10機(うち協同7機)が1日あたり最高撃墜機数として記録資料により差があります
この人の紙片は、まだ蔵にありません。
まだ分かっていないこと
- 顔写真:まだありません。戦時中に報道された人でなければ、公有のまま使える肖像はほとんど残っていません ⚪️
- その後:戦後どう生きたかは、この資料には書かれていません。
このカードは、一冊の本から写した事実だけでできています 🟡 索引。伝記ではありません。空いている欄は、その本にそう書かれていないという意味です。推測では埋めていません。
出典=海軍戦闘機隊 誌面234
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