歩兵第二連隊
水戸で生まれ、ペリリュー島で終わった連隊
歩兵第二連隊
🟡 索引- 通称号
- 照七四六
- 所属
- 第一四師団
- 補充地
- 水戸
- 編成地
- 水戸
- 軍旗拝受
- 明治七年十二月十九日
- 連隊長
- 中川州男(大佐)
- 戦い
- ペリリュー島の戦い(昭和十九年九月〜十一月)
まだ分かっていないこと
- 顔写真:中川州男の肖像は流通しているものの、元がいつどこで刊行された写真なのかを、まだ確かめられていません ⚪️
- 拠点の名前:連隊が拠った山に「水府山」という名が記録されています。水府は水戸の異称です。故郷の名を島の山に付けたのかどうかは、まだ確かめられていません ⚪️
- 斬り込みの人数:最後の斬り込みに加わった人数は、資料によって五十五名とも五十六名とも書かれています 🟡
- 満州での駐屯地:師団としてはハルビン、ハンダガヤと記録がありますが、この連隊自体がどこにいたかは特定できていません ⚪️
出典=『太平洋戦争連隊戦史』(別冊歴史読本 戦記シリーズ51)誌面92
画像=『水戸之干城』(水陽館・大正元年)国立国会図書館デジタルコレクション コマ67 保護期間満了
七十年、同じ紙を持っていた
連隊には軍旗が与えられます。天皇から直接手渡される一枚の旗で、連隊の身分証のようなものでした。歩兵第二連隊がそれを受けたのは明治七年十二月十九日。日本にまだ「連隊」という仕組みが生まれたばかりの頃です。
同じ日に軍旗を受けた連隊が、もうひとつあります。歩兵第一連隊(東京)。この二つは、同じ日に生まれた兄弟のような部隊でした。
その旗の写真が残っています。明治四十五年(大正元年)に水戸で出た『水戸之干城』という本に、「歩兵第二聯隊旗」として二枚並べて載っているものです(このページのカードに出している画がそれです)。一方は旭日の模様も房飾りもはっきりしていて、もう一方は布が傷んで模様が判別しにくくなっています。撮影された時点で、旗を受けてから三十八年が経っていました 🟢。
出典=『水戸之干城』(水陽館・大正元年)国立国会図書館デジタルコレクション コマ67
そこから七十年、この連隊は同じ旗を持って移動し続けます。西南戦争、日清、日露。大正八年にはシベリアへ渡り、尼港(ニコライエフスク)で第三大隊が全滅しました。昭和に入ると満州へ。日中戦争では華北から保定へ。いったん水戸へ帰り、また満州へ戻ります。
そして昭和十九年、大連から横浜、小笠原・父島を経て、パラオ諸島へ。四月、連隊はペリリュー島に配置されました。
なぜ、その島だったのか
ペリリュー島には、海軍が昭和十四年に造った大きな飛行場がありました。アメリカ軍の公刊戦史は、この島を含むパラオ諸島の位置をこう書いています——フィリピンへ向かう攻撃の、ちょうど真横。ミンダナオ島から五百マイル。マッカーサーも、ニミッツも、統合参謀本部も、ここを日本軍が持ったままフィリピンへ進むことはできないと考えていた、と 🟢。
出典=Frank O. Hough, The Assault on Peleliu(米海兵隊公刊戦史・1950年)第1章
この連隊が受けた命令
昭和十九年十一月八日、島の部隊が「最悪の場合は全員で飛行場に切り込む」と打電したとき、パラオ本島の司令官・井上貞衛から返ってきたのは、こういう命令でした 🟢。
安易に玉砕することなく、苦しくとも健在し、飽く迄持久に徹すること
出典=防衛省防衛研究所「史料のなかの軍人たち — 陸軍中将 井上貞衛」
十一月二十四日午前十時三十分、連隊長・中川州男の名で発信された電報が残っています。「健在者約五〇名」「弾薬約二〇発」——そして「飽ク迄持久ニ徹シ」。最後の電報まで、受けた命令の言葉のままでした 🟢。
出典=JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C24070981300「歩2電第181 戦況急迫報告」
同じ日の午後四時、司令部は「サクラ」という電報を受け取ります。この連隊が、あらかじめ決めておいた言葉でした。中川州男は同日、自決しています 🟢。
出典=常陸大宮市広報「ふるさと歴史だより 水戸歩兵第二連隊の足跡」(常陸大宮市文書館)
それから
組織的な戦闘が終わったあとも、島に残った人たちがいました。昭和二十二年四月、三十四名が投降しています。その前月、内閣総理大臣・吉田茂の名で、残留者に宛てた勧告文が作られました。すでに約七百万人が復員したことを伝える文書です 🟢。
出典=JACAR Ref.A14110189100「ペリリュー島残留軍人に対する総理の勧告文」(国立公文書館蔵)
——一つの島に残った数十人に、総理大臣が文書を書いている。この一枚も、紙片です。
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