誰にも見せなかった日記
——朝日文左衛門『鸚鵡籠中記』、二十六年と八ヶ月
尾張藩に、朝日文左衛門重章(あさひ・ぶんざえもん・しげあき)という役人がいました。役は御畳奉行。お城の畳を管理する役です。中級の藩士で、戦もなく、手柄を立てる機会もない時代の、地方の役人でした。名前が歴史に残る立場の人ではありません。
その人が、十八歳から四十四歳まで、二十六年と八ヶ月、ほぼ毎日、日記を書きつづけました。サボったことも、飲みすぎたことも、上役や殿さまの悪口も、そのまま。——バレたら、ただでは済まなかったはずのことばかりです。
このページは、動画(第十六話)では拾いきれなかったこの日記の逐語と、そのうしろにある「制度」を、確かめられた事実で、たどり直すものです。逐語で引ける箇所と、そうでない箇所を、はっきり分けて書きます。
① この日記は何か——『鸚鵡籠中記』 🟢 確か
書名は『鸚鵡籠中記』(おうむろうちゅうき)。籠の中の鸚鵡の記、という意味です。鸚鵡は人の言葉を口真似する鳥。見聞きしたことを、そのまま写しているだけです——という、書き手自身の言い方です。
この日記を料理の側から研究した五味貞介の論文(一九八六年)は、その緒言でこう書き出しています。「鸚鵡籠中記、三十七冊は尾張藩士、朝日重章(通称御畳奉行)、朝日文左衛門の日記で」。そして期間は、「彼が18歳の元禄4年(1691)6月13日から死の前年、享保2年(1717)の末日、44歳まで、26年8ヶ月間に亘るものである」。
全部で三十七冊。分量はおよそ二百万字と言われます(この字数は推計です。⑥の1をご覧ください)。
そして、この日記の来し方が、この回のいちばん静かな見どころです。五味論文は、こう書いています。「200年余りの間、尾張藩の秘庫にあって、全く人目に触れなかった」。さらに——「この書が名古屋叢書続編(第9〜第12巻)として全巻公開されたのは昭和44年であった」。
昭和四十四年。西暦でいうと、一九六九年です。三百年前に書かれた紙が、私たちの手の届くところに出てきたのは、そのときでした。
……わたしたちが読めるようになって、まだ、それくらいなんですね。
出典:五味貞介「鸚鵡籠中記に基く元禄料理の考察と再現について」(『調理科学』19巻4号・1986・J-STAGEオープンアクセス)p.34 緒言。逐語は同誌面から。
② 逐語の棚(1)——よその家の婚礼の献立 🟢 確か
この人は、宴席に呼ばれると、出てきたものを皿の中身まで書きます。元禄十五年八月十三日(西暦一七〇二年)の条。五味論文が、日記の原文をそのまま転記しています。
さしみ いり酒(鯉の子付 山葵 玉子 ふのやき 九年母)
汁(うなぎ かも めうど しめじ 皮牛蒡 せり)
二汁 鯛 軸
煮物(たたきあわび くしこ 松たけ)
刺身に何を添えたか。汁に何が入っていたか。二の汁、煮物——一皿ごとに、中身がそのまま書き並べてあります。料理の名前だけではなく、括弧の中まで。
そして——これは、彼自身の祝いの席ではありません。よその家の婚礼です。大岡又左衛門という人の婚礼の膳を、彼は一皿ずつ書き取っている。
よそのお家の結婚式のごはんを、一皿ずつ……ですか。汁の中身まで!
五味論文は、この日記についてこう書いています。「この中に述べられた振舞、婚礼の料理は300余曲を数え」。三百を超える献立が、この日記の中にある。だからこの日記は、元禄の食を復元できる史料になりました。同じ論文はさらに、「この書の価値は元禄の世の人間の生き方をそのまま抽いたところにある」とも書いています。
出典:五味貞介1986 p.38(元禄十五年八月十三日条の転記)。⚠️この献立を「文左衛門自身の結婚式のもの」とする記述が世に出回っていますが、逐語で確認できるのは他家の婚礼のほうです(⑥の4)。
③ 逐語の棚(2)——元禄十六年十一月廿二日、丑二點 🟢 確か
元禄十六年十一月二十二日。西暦でいうと、一七〇三年の暮れにあたります。関東で大きな地震が起きた夜でした。名古屋も揺れています。時刻は、いまの午前二時ごろ。日記の書き出しは、こうです。
廿二日 丑二點地震。良久敷震ふ。而震返しあり。(二十二日。丑の二點=およそ午前二時、地震。ずいぶん長いこと揺れ、そして揺り返しがあった。)
このあと、彼は何を書いたか。
○豫起て母の處へ行。庭池氷碎。水逆揚り。瀨枕大に鳴るがごとし。十八年先、八月十六日辰刻之地震よりは、震ふ事久し。(私は起きて、母のところへ行った。庭の池の氷が割れ、水が逆に噴き上がった。瀬枕が大きく鳴るようだった。十八年前、八月十六日辰の刻の地震よりも、揺れている時間が長い。)
「豫(よ)」は、私。この一字が私だと分かった瞬間に、三百年前の人が一人称になります。真夜中の二時に揺れて、起きて、彼が最初に書いたのは、そのことでした。
その夜は、まだ続きます。
○丑半刻、遠くひゞきの音聞ゆ。後に聞之は、光物飛と。曉迄少しづゝ、又三度震。○甚目寺の仁王顛倒し、足損す。(丑の半刻、遠くで響く音が聞こえた。あとで聞けば、光るものが飛んだのだという。夜明けまで少しずつ、また三度揺れた。甚目寺の仁王が倒れて、足を損じた。)
遠くで鳴る音。飛んだという光るもの。夜明けまでの三度の揺れ。そして、隣町の寺の仁王が倒れて、足を損じたこと——地震の夜に、その一行までが書き留められている。
出典:『鸚鵡籠中記』元禄十六年十一月廿二日条(翻刻は『新収 日本地震史料』所載)。逐語は原文どおり・旧字のまま。⚠️この日記には江戸や各地の被害の書き上げも延々と続きますが、当時の伝聞による死者の数は、この記事では引きません。
④ なぜ、釣りが七十六回もできたのか——蔵だけの話 🟡 諸説
ここから先は、本編では触れていない話です。「サボりの人」で終わらせずに、その裏にあった制度のほうを見ておきたいので、蔵に置きます。
文左衛門が生きた元禄は、五代将軍・徳川綱吉の生類憐みの令が出ていた時代です。生き物を殺すことを禁じた、あの法令。魚も、その対象でした。釣りは、原則としてできない。
ところが、この日記の書き手は釣りに行きます。その禁令が生きているあいだに、彼が漁場へ通った回数は七十六回と伝わっています。
七十六回? 法令、出てますよね?
なぜ、それができたのか。日記には、尾張ではこの法令をほとんど取り締まっていなかった、という趣旨のことが書かれている、と伝わっています。天下の法令が、名古屋ではそこまで効いていなかった。釣り七十六回は、ひとりのサボりの記録であると同時に、尾張藩がこの法令とどれだけ距離を取っていたかの記録でもあります。
もう少し細かい話も、伝わっています。元禄八年六月、立入禁止になっていた漁場で、役人に袖の下を渡して見逃してもらったという条があるといいます。ただしこれは出どころが一系統しかなく、原文で確かめられていません。
それから、江戸の犬小屋のこと。元禄九年六月十二日の条に、中野の犬小屋について「毎日三十〜五十匹」「餌代は米五十俵ほど/日」といった数字が書かれている、と伝わります。⚠️「中野の犬小屋には八万頭いた」という有名な数字は、この日記の記述とは別の出どころです。混ぜて読むと、この日記が書いていないことを書いたことにしてしまいます。
出典:釣り七十六回・尾張の取り締まり=二次資料の複数一致(🟡・原文照合前)。魚が対象であったこと=生類憐みの令の解説(典拠として神坂次郎『元禄御畳奉行の日記』が挙げられる)。袖の下の条・犬小屋の数字=一系統のみ(⚪️)。八万頭は別出典であり、この日記の記述ではありません。
⑤ 忠臣蔵が、隣の家の話になる 🟢 確か 🟡 逐語は諸説
元禄十四年(一七〇一)三月十四日。江戸から名古屋へ、知らせが届きます。日記には「江戸で喧嘩があった」「吉良という人が頭を切られた」という趣旨で書かれている、と伝わっています。松の廊下——忠臣蔵の、はじまりの日です。届いた第一報では、まだ「喧嘩」でした。
その翌年、元禄十五年十二月十四日(西暦では一七〇三年一月)。浅野内匠頭の家来四十七人が吉良上野介の首を取り、泉岳寺へ引き揚げた——その日のことも書き留められている、と伝わります。
⚠️この二つの条は、二次文献に載っている引用を通して知られているもので、この記事は原本にあたれていません。だから逐語(引用の体裁)では出さず、地の文で書いています(⑥の3)。
そして、名古屋にはこの事件の当事者の家族が住んでいました。熊井重次郎(諱は重次)。尾張藩士で、屋敷はいまの名古屋市東区・東芳野町のあたりです。討ち入った片岡源五右衛門高房の、実の父でした。
忠臣蔵が、隣の家の話になってしまいました。
もうひとつ、尺の都合で本編に入らなかった一行があります。熊井重次郎が亡くなったのは、正徳四年八月十四日と伝わります。息子が切腹してから、十一年、生きている。名古屋で、四十七人の父として、その十一年を過ごした人がいました。
出典:熊井重次郎の名・身分・屋敷の場所=名古屋の戦前刊行物四系統(一九一七年『名古屋市勢一覧』/一九二五年『片岡源五右衛門と名古屋』/一九三六年『観光の名古屋とその附近』/一九四二年『赤穂義士研究』)が一致(国立国会図書館 次世代デジタルライブラリーで逐語まで確認)。⚠️禄三百石は養家である片岡家の数字で、熊井家のものではありません。
絵で見る
文左衛門が歩いていた名古屋の絵が残っています。『尾張名所図会』——ただし刊行は明治十三年(1880年)で、日記より百五十年あとの本です。文左衛門が見た景色そのものではありませんが、同じ町の、同じ場所が描かれています。
町の賑わい
祭と、参詣
忠臣蔵——ただし、後世の絵
⑤で見た二つの日——松の廊下と、討ち入り。どちらも錦絵に描かれています。⚠️ただし、これは歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』の物語絵です。事件そのものの写生ではありません。
出典:江戸後期の名古屋の絵は『尾張名所図会』前編(明治十三年刊)より。国立国会図書館デジタルコレクション(パブリックドメイン)。
⑥ もっと深く——諸説・異説・確かめられなかったこと
笑える回ですが、事実の確かさは手を抜きません。確かでないことは「確かでない」と書いて載せます。
🟢 確か一次・二次資料で裏が取れている 🟡 諸説資料や研究者で見方が分かれる ⚪️ 裏付けなしもっともらしいが、証拠がない
1. 「二百万字」は、推計です 🟡 諸説
この日記の分量として広く言われる「二百万字」は、原稿用紙を数えた実数ではなく、推計です。私たちが確かめられたのは「全三十七冊」「二十六年八ヶ月」という骨のほうで、字数はおよそという言葉を付けないと書けません。動画のタイトルでは「日記200万字」と短く言い切っていますが、本文でもテロップでも「およそ二百万字」で通しています。数字は、丸めた瞬間に断定になります。
出典:全三十七冊・二十六年八ヶ月=五味貞介1986 p.34(🟢)。二百万字=二次資料に「約200万字」とあるもの(🟡)。
2. 「バレたら切腹では?」は、紙目の軽口です ⚪️ 処罰の実例は無し
タイトルにも動画にも出てくる「これ、いまなら始末書ですけど、当時は切腹では?」は、紙目(かみめ)のツッコミであって、史実の処罰例ではありません。この日記が見つかって誰かが罰せられた、という記録を、私たちは持っていません。当時の武家社会で主君の批判がどう扱われたかという一般論と、この日記に何が起きたかは、別の話です。
確かなのは、そこまで書いておきながら彼が誰にも見せなかったこと、そして二百年余り、誰も読まなかったことです。事の重さは、処罰の想像ではなく、そちらの事実のほうにあります。
出典:「200年余りの間、尾張藩の秘庫にあって、全く人目に触れなかった」=五味貞介1986 p.34(🟢)。処罰に関する記録は未取得(⚪️)。
3. 逐語で引けたのは、二系統だけでした 🟡 諸説
正直に書きます。この回で原文の逐語として引けたのは、②の献立と③の地震の二系統だけです。この日記の翻刻(『名古屋叢書続編』第九〜第十二巻)は、誰でもすぐ開ける形では公開されていません。
ですから、五十六日の出張/浄瑠璃の入場料四十文/自分にしか読めない字で書いた女遊び/殿さまの大酒/松の廊下の第一報/討ち入り当日——世に知られたこれらの粒は、すべて二次資料を通して知られているものです。この記事でも動画でも、それらは「日記にこう書いている、と伝わっています」の距離で書き、引用の体裁(かぎ括弧の逐語)にはしていません。
引用の体裁は、確度の印です。動画でも、日記の逐語を読む声は🟢の二系統だけに使い、それ以外は語りの声で話しています。声そのものが、確かさの目印になっているという作りです。
出典:翻刻の公開状況・二次資料の系統=2026年に調査。逐語つきで自由に読める学術文献の悉皆調査で、献立以外は取れませんでした。
4. 献立は「自分の結婚式」ではありませんでした 🟢 確か
この日記の献立といえば「元禄六年、自分の結婚式の膳を延々と書いた」という紹介をよく見ます。けれど、逐語で確かめられるのは、元禄十五年八月十三日の、他家の婚礼のほうでした。文左衛門自身の婚礼(元禄六年)の献立が逐語で載っている文献は、確認できていません。
そして——訂正した結果、話はむしろ面白くなりました。「自分の結婚式の献立を書いた」より、「よその家の結婚式の献立を、皿の中身まで全部書いた」ほうが、記録魔としてはよほど可笑しい。
出典:五味貞介1986 p.38(元禄十五年八月十三日・大岡又左衛門の婚礼)。文左衛門自身の婚礼の献立の逐語は未取得。
5. 三百年経つと、兄が弟になる 🟡 諸説
⑤の熊井重次郎を調べていて出てきた、史料どうしの食い違いです。戦前の名古屋の本は「兄は藤兵衛」で揃っているのに、現在よく参照される記述では「弟に嫡男の座を奪われ、その弟を兄上と呼ばされた」という筋になっている。養家に入った縁も、「熊井長右衛門の女(むすめ)」と「弟・長左衛門の娘」で一字ちがう。
三百年経つと、兄が弟になり、右が左になります。どちらが正しいかを、この記事は決めません。決められるだけの材料を持っていないからです。ただ、「昔のことだから確かだ」ということは無い——それだけは、はっきり書いておきます。
出典:戦前刊行物四系統(⑤に既出)と、現在流通する系譜記述の突き合わせ。どちらが誤りかは未確定(🟡)。
6. 元禄の名古屋を写した絵は、ありません 🟢 確か
画の話も、正直に。動画で使っている名古屋の絵は『尾張名所図会』ですが、これは明治十三年(一八八〇)刊の版本で、描いたのは江戸後期の絵師です。文左衛門が生きた元禄より、およそ百五十年あとの絵です。「当時の名古屋」ではなく、「同じ町を、後の絵師が描いたもの」として使っています。
忠臣蔵の場面で使っている錦絵も同じです。松の廊下の絵も、広重の「忠臣蔵 十一段目 夜打押寄」も、歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』の物語絵です。事件の写生ではないので、画面には毎回その断りを出しています。
そして——『鸚鵡籠中記』の原本の紙面は、公開されていません。動画で「日記の文字」として出てくる縦組みは、逐語から起こした組み直しです。実物の写真のふりは、していません。
出典:『尾張名所図会』前編=国立国会図書館デジタルコレクション(パブリックドメインマーク)。松の廊下=Wikimedia Commons(パブリックドメイン)。広重「忠臣蔵 十一段目 夜打押寄」=メトロポリタン美術館(CC0)。
出典一覧
- 『鸚鵡籠中記』朝日重章(元禄四年〜享保二年)。翻刻=『名古屋叢書続編』第九〜第十二巻(一九六五〜六九年・全巻公開は昭和四十四年)。地震の条の翻刻は『新収 日本地震史料』所載
- 五味貞介「鸚鵡籠中記に基く元禄料理の考察と再現について」(『調理科学』19巻4号・1986)=J-STAGE(オープンアクセス)。①の緒言と②の献立は、この誌面から逐語で取っています
- 熊井重次郎(諱・重次/片岡源五右衛門高房の実父/屋敷=東芳野町/没年・正徳四年八月十四日)=名古屋の戦前刊行物四系統(1917/1925/1936/1942)の一致。国立国会図書館 次世代デジタルライブラリーで逐語確認
- 釣り七十六回・尾張の取り締まり・五十六日の出張・入場料・暗号・殿さまの大酒・松の廊下・討ち入り=いずれも二次資料に拠るもの(🟡)。原文にあたって確かめてはいません
- 絵=『尾張名所図会』前編(明治十三年刊)国立国会図書館デジタルコレクション(PDM)/松の廊下の錦絵=Wikimedia Commons(PD)/歌川広重「忠臣蔵 十一段目 夜打押寄」=The Metropolitan Museum of Art(CC0)
このチャンネルは、資料の選定・事実の検証・言葉の解釈と最終判断を、すべて人間が行っています。制作の一部(音声合成・画像の様式化・翻訳補助)にAIを使っています。詳しくは制作方針へ。
⑦ 動画で見る/次の一枚へ
次の一枚を、探しにいきます。チャンネル登録と、高評価が、その力になります。
YouTubeで見る・登録 → めしの話ばかり(酒井伴四郎)→ 地図で辿る →
この記事の事実は、公開されている学術文献・国立国会図書館の公開資料、および各話の検証済み台本にもとづいています。引用した日記の逐語は、照合済み逐語集の原文と一字一句を突き合わせて確定しました。『鸚鵡籠中記』の原文は著作権保護期間の満了した文書です。出典の裏づけが取れなかった記述は、本文中に🟡・⚪️で示しています。
記事本文 © 2026 紙片の日本史/Fragments of Japan ・ 事実誤認のご指摘は contact@fragmentsjapan.com まで