Archive ・ 紙片の日本史 #006 ・ より詳しく

めしの話ばかり
——大老が殺された年、単身赴任の侍が書いた半年

万延元年、三月三日。江戸城桜田門の外で、大老・井伊直弼が殺されました。教科書が「激動の幕末」と呼ぶ、あの年です。

その二ヶ月あと。和歌山から江戸へ、ひとりの武士がやってきました。酒井伴四郎、二十七歳。禄高三十石の下級武士。彼は江戸で半年あまり、ほぼ毎日、詳しい日記をつけました。そこに書いてあるのは——めしの話ばかり。餅を何個食べたか。飯が固いこと。鰻でしくじったこと。

このページは、動画(第六話)では拾いきれなかったこの日記の面白さと、そのうしろにある「歴史」を、確かめられた事実で、たどり直すものです。

① 単身赴任の侍——酒井伴四郎とは 🟢 確か

酒井伴四郎は、天保五年(一八三四年)生まれ。紀州和歌山藩の下級武士で、禄高は三十石。大番組の駿河組に属していました。妻・飛路(ひろ)と、幼い娘・歌を和歌山に残し、叔父の宇治田平三の口利きで、江戸勤番に呼ばれます。

仕事は「衣紋方」。儀式の日の装束を着付ける役です。これがまた、暇でした。半年で出仕はたった四十七日。最も多い八月でも十三日、七月にいたっては出仕ゼロ。しかも勤務は午前中の二〜四時間ほど。この時間の余白こそが、あの膨大な食日記を生んだのです。

出典:酒井伴四郎の来歴(紀州和歌山藩・禄高30石・大番組駿河組・衣紋方・出仕計47日・7月出仕なし・叔父宇治田平三)=2026年に一次テキストで確認。

② 餅を数えて歩く旅——和歌山から江戸へ 🟢 確か

万延元年五月十一日、伴四郎は和歌山を発ちます。和歌山から江戸まで、いまなら電車で四時間。当時は自分の足で、十九日の道のりでした。

叔父たちと中山道をゆく。大坂では前代未聞の大水に足止めされ、それでも夜の町を見物し、翌日は芝居を一日じゅう観る。草津では名物の姥が餅を五つ、篠原餅、あんころ餅、わらび餅——餅を食べながら、歩く。そして塩尻峠で、彼は生まれてはじめて富士山を見ました。歩いたからこそ、峠の先に、それは突然あらわれる。

紙目(かみめ)

あの、旅の目的、覚えてます? でもこれ、餅の名前も、いくつ食べたかも、ちゃんと日記に書いてあるんです。

出典:台本v2(道中の記述・姥が餅五つ・塩尻峠の富士)=江戸博報告書第23集翻刻で突合。旅程19日=台本Tier。

③ 男三人の長屋暮らし 🟢 確か

住まいは赤坂、紀伊国坂の藩邸長屋。叔父と、同僚の大石直助と、男三人暮らしです。炊事は直助と一日交代。伴四郎は日記に、こう書いています。

江戸着以来、直助之焚飯者、始終粥めし。予焚飯者、始終強めし。
(江戸に着いてからずっと、直助の炊く飯は粥のよう、おれの飯は固い。)

おかずは各自、それぞれ好みで作る決まり。百六十年前のルームシェアも、こうだったのです。

出典:日記10/29条「直助之焚飯者始終粥めし、予焚飯者始終強めし」=報告書p.86(37) で原文突合。

④ 事件簿——アジ、カツオ、そして鰻の夜 🟢 確か

この日記の白眉は、食にまつわる小さな事件の数々です。

紙目(かみめ)

言っておきますけど、この人、二十七歳の、妻子ある武士です。……でも、わかる気もします。江戸の鰻ですよ?

出典:日記 8/1-2条「腹わたでんぐりかへり」=報告書p.105(18)/10/25条「うなぎ二鉢ニ而酒弐合呑」「叔父様ニ大ニしかられ…皆吐出し、其後ゟ前後不知」=p.87(36)/アジ7月末=p.106(17)。全点翻刻紙面で目視突合。

⑤ 下級武士のグルメ批評 🟢 確か

伴四郎は、舌が肥えています。九月十八日、日本橋のかしわ鍋屋で出た肉が固く腐りかけて臭いと、ひと口で突き返し、蛤鍋に替えさせた。帰りに試した「すいとん」の評は——

中々、我々の喰物ならず。
(とても、われわれの食べるものではない。)

その二日後、向島の川沿いの料理屋を眺めては、下級武士の給料ではのれんをくぐれないと、こう書きます。

風雅成事、難尽筆紙。只、羨敷計り也。
(その風雅なこと、筆にも紙にも尽くしがたい。ただ、うらやましいばかりである。)

それでも桜餅、浅草餅、すし、祇園豆腐。お参りをしながら、食べて、食べて、歩く。

出典:日記9/18条「中々我々の喰物ならず」=報告書p.95(28)/9/20条「風雅成事難尽筆紙、只羨敷計り也」=同紙面。翻刻突合済み。

⑥ 大老暗殺の年と、甘酒 🟢 確か

ここが、この回のいちばん静かな見どころです。

江戸城にいる十四代将軍・家茂は、二年前まで伴四郎の殿様でした。家茂は御三家・紀州徳川家の出身(旧名・慶福)。桜田門外で井伊直弼が殺されたあの政変で、その井伊直弼ら南紀派に推されて、十三歳で将軍になった人です。つまり伴四郎の藩は、日本の政治のどまんなかにいました。

六月朔日、江戸に着いたばかりの伴四郎は登城見物に出かけ、殿様・茂承の行列に息をのみます。「其勢、飛鳥之落る計り也」。そして同じ日、桜田門外で殺されたばかりの井伊家の跡継ぎの初お目見えも、その行列にありました。日記はそれを一行だけ書き、そして——次の行で、甘酒を飲んでいます

歴史の激震と、一杯の甘酒が、同じ一日の同じ紙の上に並んでいる。幕末を生きた人の大半は、刀を抜かず、名を残さず、今日のめしを炊いていた——この日記は、そのことを、そっと教えてくれます。

出典:日記6/1条「其勢飛鳥之落る計り也」+「伊井も跡目ゟ此日乗出也、夫ゟ甘酒呑」=報告書p.118(5)。家茂=紀州藩第13代藩主から14代将軍(南紀派・井伊直弼の支持)=2026年 一次確認。

⑦ 日記が閉じたあと

和歌山 →(中山道・十九日)→ 江戸・赤坂紀伊国坂 → 向島・浅草の食べ歩き / 現在地=東京都江戸東京博物館

十一月晦日、日記はふつりと終わります。伴四郎は勤めを終え、和歌山の家族のもとへ帰りました。上原や丸田のように海を渡る旅ではなく、中山道を往復した、一人の下級武士の半年。その紙が、いま東京の博物館にあります。

紙目(かみめ)

……で、この人、その後どうなったと思います? それが、⑧に。ちょっといい話なんです。

⑧ もっと深く——諸説・異説・確かめられなかったこと

軽い回ですが、事実の確かさは手を抜きません。確かでないことは「確かでない」と書いて載せます。

🟢 確か一次・二次資料で裏が取れている 🟡 諸説資料や研究者で見方が分かれる ⚪️ 裏付けなしもっともらしいが、証拠がない

1. 「はんしろう」という読みは、実は推測 🟡 諸説

名前の読みから、正直に。「酒井伴四郎」を「はんしろう」と読むのは、実は推測です。当時の記録に、確かな読み仮名があるわけではありません(諱=本名は「彰常(あきつね)」と分かっています)。丸田年道の「年道」が読めなかったのと、同じ問題がここにもあります。武士の名前ひとつ、確かめるのは簡単ではないのです。

出典:酒井伴四郎の来歴「名前の読みについては推測である」/諱・彰常=2026年 一次確認。

2. 残っているのは、半年分 🟢 確か

伴四郎の江戸勤番は万延元年六月から翌年一月まででしたが、いま残っている日記は、六月から十一月までの半年分です。私たちが「めしの話ばかり」と言えるのは、この半年の記録があるおかげ。のちの二度目の江戸勤務のときの日記の一部も、別に見つかっています。「百九十五日」という数え方は、和歌山出発からのおおよその日数で、日記そのものは、この半年分が芯です。

出典:酒井伴四郎日記の現存範囲(万延元年6月〜11月の半年分/2度目勤務の断片も発見)=2026年 一次確認。

3. どこで見つかった一冊なのかは、確定していない 🟢 確か ⚪️ 発見の場所は裏付けなし

この日記が世に出た経緯を、確かめられた範囲で。歴史学者の林英夫がこの日記を発見し、竹内誠に託し、二〇〇八年に竹内から東京都江戸東京博物館へ寄贈されました。二〇一〇年、江戸博が竹内誠・石山秀夫の翻刻で『調査報告書第二十三集 酒井伴四郎日記——影印と翻刻——』を刊行。この記事が引用を突き合わせた底本は、これです。

ただし、そもそもどこで見つかった一冊なのかは、確かめられていません。「名古屋の古書店で見つかった」という話も伝わりますが、確かな裏づけは見つかっていない。確かなのは「林英夫が発見し、竹内誠を経て江戸博へ」という伝来までです。

出典:発見・寄贈・翻刻の経緯(林英夫発見→竹内誠→2008江戸博寄贈/2010翻刻刊行・竹内誠/石山秀夫)=2026年 一次確認。発見の場所の裏づけは未取得=⚪️。

4. 「食日記」という読み方は、青木直己が広めた 🟢 確か

この日記を「幕末の食日記」として世に広く知らせたのは、食文化史家の青木直己です。二〇〇五年の著書『幕末単身赴任 下級武士の食日記』(のちちくま文庫)が火付け役でした。この記事の「めしの話ばかり」という切り口も、この読み方の系譜にあります。さらに古くは一九七二年、島村妙子が下級武士の生活実態としてこの日記を論文で分析しています。研究がまずあって、その上に、この面白さが立っている。

出典:研究史(島村妙子1972論文『史苑』/青木直己2005『幕末単身赴任 下級武士の食日記』/2014『紀州藩士酒井伴四郎関係文書』)=2026年 一次確認。

5. なぜ、こんな日記が貴重なのか 🟢 確か

武士というと、志士や殿様の記録が残りがちです。けれど下級の、名もない武士が、日々のめしまで細かく書き残した記録は、とても珍しい。しかも伴四郎は、食べたものにいちいち値段を書いています。おかげで私たちは、江戸の物価も、下級武士の家計も復元できる。彼の一年の収入は三十九両、使ったのは二十三両ほど、お賽銭は四文から八文。しっかり者の家計簿が、そのまま経済史の資料になっているのです。研究者は、政治史・情報史・観光史・服飾史・食生活史と、幅広い分野に役立つと評価しています。

出典:日記の物価記載・家計(収入39両・支出23両ほど・賽銭4〜8文)=台本Tier検証/藤本清二郎による研究上の評価=2026年 一次確認。

6. 伴四郎は、そのあとどうなったか 🟢 確か ⚪️ 没年は不明

日記が閉じたあとの伴四郎の人生も、少し分かっています。約三年後、彼は再び江戸勤務につき、第二次長州戦争にも従軍しました。長州藩との戦闘に参加しますが、負傷することなく和歌山へ帰ります。慶応二年には組頭、翌年には奥詰へと出世。妻・飛路を病で亡くし、明治二年に富貴と再婚、長男も生まれました。故郷に帰ってからは、庭の草取り、発句会、囲碁。餅を数えて歩いたあの武士は、幕末の動乱を生き延び、明治の世まで、穏やかに暮らしたのです。ただし、いつ亡くなったのか、没年は分かっていません。

出典:伴四郎の後半生(1865再勤務→第二次長州戦争従軍・負傷なし→組頭・奥詰へ出世→明治2年再婚)=島村妙子論文ほか・2026年 一次確認。没年不明=⚪️。

出典一覧

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この記事の事実は、一次資料と各話台本(Tier検証済み)にもとづいています。引用した日記は、江戸博調査報告書第23集の翻刻紙面と突き合わせて確定しました。引用日記は著作権保護期間の満了した文書です。