「絶対に他人にみせないで下さいね」
——林市造・出撃二日前の手紙、本に印刷された全文
林市造(はやし・いちぞう)。1922年(大正十一年)2月6日生まれ、福岡県の人です。京都帝国大学経済学部から学徒出陣で海軍へ入り、1945年(昭和二十年)4月12日に亡くなりました。原本の記録の言葉では「南西諸島方面にて特攻戦死」。生年月日と没日から数えて、二十三歳です。
母は、志願に反対していました。息子は反対を押して志願し、選ばれ、出撃の二日前に、ほかならぬその母に宛てて手紙を書いています。書かれているのは、謝罪でも、正当化でも、立派な別れの言葉でもありません。
このページは、動画で語りきれなかったことを、確かめられた事実で辿り直す場所です。手紙は、本に印刷された全文を載せます。本人の文章は著作権の保護期間が満了しているためです(⑤の6)。
① 手紙——本に印刷された全文
出どころは、第十四期会が編んだ遺稿集の pp.186-189 です。参照しているのは活字になったこの本で、手紙の現物(紙そのもの)にはあたれていません⚪️ 裏付けなし。以下は、その本の紙面と一字ずつ照合した転写です。改行と段落は本のとおり、〔 〕や中略は使っていません。
本に印刷されている、名前の欄
林 市 造
大正十一年二月六日生 福岡県 京都帝大経済学部 昭和二十年四月十二日、南西諸島方面にて特攻戦死(神風特別攻撃隊第二・七生隊)
⚠️戦没地の書き方は「南西諸島方面」——「方面」までが原本の表記で、海域は特定されていません。このページも、原本の表記のまま扱います(⑤の2)。「第二・七生隊」の「第二」が何を指すかは、確かめられませんでした⚪️ 裏付けなし。
昭和二十年四月(元山航空隊から 書簡)
お母さん、とうとう悲しい便りを出さねばならないときがきました。
親思ふ心にまさる親心 今日のおとづれ何ときくらむ
この歌がしみじみと思われます。
ほんとに私は、幸福だったです。我ままばかりとおしましたね。けれども、あれも私の甘え心だと思って許して下さいね。
晴れて特攻隊員と選ばれて出陣するのは嬉しいですが、お母さんのことを思うと泣けてきます。
母チャンが、私をたのみと必死でそだててくれたことを思うと、何も喜ばせることができずに、安心させることもできずに死んでゆくのが、つらいです。
私は至らぬものですが、私は母チャンに諦めてくれ、ということは、立派に死んだと喜んで下さい、ということは、とてもできません。けど、あまりこんなことは言いますまい。
母チャンは、私の気持をよく知っておられるのですから。
婚約その他の話、二回目にお手紙いただいたときはもうわかっていたのですが、どうしてもことわることができませんでした。私もまだ、母チャンに甘えたかったのです。
この頃の手紙ほど、うれしかったものはなかったのです。一度会ってしみじみと話したかったのですが、やはり抱かれてねたかったのですが、門司が最後となりました。この手紙は、出撃を明後日にひかえて書いています。
ひょっとすると、博多の上をとおるかもしれないので、楽しみにしています。かげながらお別れしようと思って。
千代子姉さんにもお会いできず、お礼をいいたかったのですが残念です。私が高校をうけるときの私の家のものの気づかいが、宮崎町の家とともに思いだされてきます。
母チャン、母チャンが私にこうせよと言われたことに反対して、ここまで来てしまいました。私としては希望どおりで嬉しいと思いたいのですが、母チャンのいわれるようにした方がよかったかなあとも思います。
でも私は、技倆抜群として選ばれるのですから、よろこんで下さい。私たちぐらいの飛行時間で第一線に出るなんて、ほんとはできないのです。
私が死んでも満喜雄さんがいますし、お母さんにとっては、私の方が大事かも知れませんが、一般的にみたら満喜雄さんも、事をなし得る点において絶対にひけをとらない人です。
千代子姉さん、博子姉さんもおられます。たのもしい孫もいるではありませんか。私もいつも傍にいますから、楽しく日を送って下さい。お母さんが楽しまれることは、私がたのしむことです。お母さんが悲しまれると、私も悲しくなります。みんなと一緒に、たのしく暮して下さい。
ともすればずるい考えに、お母さんの傍に、かえりたいという考えにさそわれるのですが、これはいけないことなのです。洗礼をうけた時、私は「死ね」といわれましたね。アメリカの弾にあたって死ぬより前に、汝を救うものの御手によりて殺すのだといわれましたが、これを私は思い出しております。すべてが神様の御手にあるのです。神様の下にある私たちには、この世の生死は問題になりませんね。
エス様も、みこころのままになしたまえと、お祈りになったのですね。私はこの頃、毎日聖書を読んでいます。読んでいると、お母さんの近くにいる気持がするからです。
私は、聖書と讃美歌を飛行機につんで、つっこみます。それから校長先生からいただいたミッションの徽章と、お母さんからいただいたお守りです。
結婚の話、なんだか人々をからかったみたいですが、こんな事情ですからよろしくお断りして下さい。意志もあったのですから。(ほんとに時間があったら結婚して、お母さんを喜ばしてあげようと思ったのです)
許して下さい、とこれはお母さんにもいわねばなりませんが、お母さんはなんでも私のしたことはゆるして下さいますから安心です。
お母さんは、偉い人ですね。私はいつも、どうしてもお母さんに及ばないものを感じていました。お母さんは、苦しいことも身にひきうけてなされます。私のとてもまねのできないところです。
お母さんの欠点は、子供をあまりかわいがりすぎられるところですが、これをいけないと言うのは無理ですね。私はこれが、すきなのですから。
お母さんだけは、また私の兄弟たちは、そして私の友だちは、私を知ってくれるので、私は安心して征けます。
私は、お母さんに祈ってつっこみます。お母さんの祈りは、いつも神様はみそなわして下さいますから。
この手紙、梅野にことづけて渡してもらうのですが、絶対に他人にみせないで下さいね。やっぱり恥ですからね。
もうすぐ死ぬということが、何だか人ごとのように感じられます。いつでもまた、お母さんにあえる気がするのです。逢えないなんて考えると、ほんとに悲しいですから。
出典=林市造 書簡:第十四期会編の遺稿集pp.186-189。林市造(1922-1945)の文章は著作者の死後の保護期間が満了しています。転写は、同書の紙面を画像で拡大し、目視で照合したものです(2026-08-02)。⚠️同書の解題・注など編者の文章は引いていません。本人の文面だけです。
本文の言い回しは、本に印刷されているとおりです。「下さい」は一貫して漢字で、「暮して」に送りがなの「ら」はありません。読みやすく直していません。
② 福岡から、元山まで——辿り直し
凡例は⑤のとおりです。🟢=複数の資料で確かめられること/🟡=資料により異なる・出典の注記がないこと/⚪️=裏付けが取れていないこと。
- 🟢 確か 1922年(大正十一年)2月6日、生まれる。出身は福岡県。
手紙には「博多の上をとおるかもしれない」「宮崎町の家」とあります。⚠️市町村までは、原本の記録に書かれていません⚪️ 裏付けなし。 - 🟢 確か 京都帝国大学 経済学部に学ぶ。
手紙の「私が高校をうけるときの私の家のものの気づかい」は、旧制高校の受験を指すとみられます⚪️ 裏付けなし。 - 🟡 諸説 1943年(昭和十八年)、学徒出陣で海軍へ。海軍飛行専修予備学生・第十四期。
⚠️「第十四期」は、この手紙を収めた本の編者が「第十四期会」=同期の会であることから読めることで、原本の名前の欄に期の記載はありません。学徒出陣そのものは1943年です🟢 確か。 - 🟡 諸説 1944年(昭和十九年)8月15日、大村海軍航空隊の元山分遣隊が独立し、戦闘機搭乗員の訓練部隊として「元山海軍航空隊」が新編される。所在は元山(げんざん)——現在の朝鮮民主主義人民共和国・元山市。
⚠️「元山海軍航空隊」は二つあります。1940年に編成され1942年に戦闘機隊を分離して陸上攻撃機の部隊になった初代(のち第七五五海軍航空隊)と、1944年に新編された二代です。林がいたのは二代のほうで、このページは初代の戦歴を一切引いていません(⑤の3)。 - 🟡 諸説 1945年(昭和二十年)3月1日、第十航空艦隊に編入。3月26日、天一号作戦の発令で第三航空艦隊の指揮下に入り、機体は鹿屋飛行場へ空輸。要員は4月2日出発・7日集合とされます。
- 🟡 諸説 4月3日、「神風特別攻撃隊・七生隊」が結成される。
- 🟡 諸説 4月6日、菊水一号作戦。七生隊12・防空隊4が出撃。
- 🟢 確か 4月10日ごろ、この手紙が書かれる。本文に「この手紙は、出撃を明後日にひかえて書いています」とあり、出撃日から逆算して二日前にあたります。
- 🟡 諸説 4月12日、菊水二号作戦。七生隊19機が出撃(⑥)。
- 🟢 確か 4月12日、戦死。原本の記録の言葉は「南西諸島方面にて特攻戦死」。
- 🟢 確か 戦後、この手紙は刊行された遺稿集に収められ、活字になる(④)。
⚠️この手紙が、どこで書かれたかは確かめられていません。本の見出しは「元山航空隊から 書簡」ですが、これは所属部隊の名であって、書かれた場所を示すとは限りません。上の年表のとおり、機体は3月26日に鹿屋へ空輸され、要員も4月上旬に移動したとされます🟡 諸説。地図の「元山」のピンは、部隊の所在地として置いています。また「鹿屋」のピンは、部隊の機体が空輸された先として置いたものです——林市造がそこから出撃したかどうかは、確かめられていません。
訓練部隊だったところが、そのまま出撃していくんですね。……教える人も、習っている人も、一緒に。
③ 引かれている歌は、誰の歌か
手紙のいちばん最初、書き出しのすぐ下に、一首だけ歌が置かれています。
親思ふ心にまさる親心 今日のおとづれ何ときくらむ
出典=その遺稿集p.186。表記は原本のまま。
本人は、誰の歌かを書いていません。続けて「この歌がしみじみと思われます」とあるだけです。
この歌は、吉田松陰が家族に宛てた別れの手紙のなかに書いたものとして伝わっています——「親思ふ 心にまさる 親心 けふのおとずれ 何ときくらん」🟡 諸説。日付は安政六年十月二十日とされ、松陰が伝馬町牢屋敷で処刑されたのは同じ月の二十七日です🟢 確か。処刑の直前に、家族に向けて書かれた歌ということになります。
⚠️「林が松陰を意識してこの歌を引いた」とは書きません。本人は作者名を書いておらず、どこで覚えた歌なのかも、確かめられませんでした⚪️ 裏付けなし。歌の出どころを確かめることと、引いた人の意図を推し量ることは、別のことです。
⚠️仮名づかいは、林の手紙(「今日のおとづれ何ときくらむ」)と、松陰の歌として流布している形(「けふのおとずれ 何ときくらん」)とで揺れます。どちらが正しいとは決めません。また、松陰の歌としてこの一首を挙げる記述には、出典の注記が付いていませんでした(⑤の凡例)。
④ この紙が、たどった道
手紙の終わりのほうに、運び方が書いてあります。
この手紙、梅野にことづけて渡してもらうのですが、絶対に他人にみせないで下さいね。やっぱり恥ですからね。
出典=その遺稿集p.189。
郵便ではありません。「梅野」という人に預けて、渡してもらう。宛先は母で、他人には見せるなと本人が書いています。
そして、確かめられるのは、ここまでです。
この手紙は、戦後に刊行された遺稿集に収められ、活字になりました🟢 確か。いま読めるのは、そのためです。
⚠️梅野という人が誰なのか、手紙が実際にどう運ばれ、いつ母のもとに届いたのかは、資料からは確かめられませんでした⚪️ 裏付けなし。「届いた」と書きません。「本になった」だけが、確かめられる事実です。手紙の現物(紙そのもの)の所在も、確かめていません。
書いた本人は、この紙を「恥」と呼びました。それが、同期の会の手で本に入り、八十年たったいまも読める形で残っています。本人が恥と呼んだものを、記録として扱っているのは、書いた人ではない側です。
「見せないで」と書いた紙が、いちばん遠くまで来ましたね。
⑤ もっと深く——諸説あり
凡例:🟢=複数の資料で確かめられること/🟡=資料により異なる・出典の注記がないこと/⚪️=裏付けが取れていないこと。分からないことは、分からないと書きます。
🟢 確か複数の資料で確かめられること 🟡 諸説資料により異なる・出典の注記がないこと ⚪️ 裏付けなし裏付けが取れていないこと
1. 年齢が、資料によって二十二と二十三に分かれます 🟡 諸説
本に印刷されているのは生年月日(大正十一年二月六日)と没日(昭和二十年四月十二日)だけで、年齢は書かれていません。この二つから数えると、満二十三歳です。二十二歳と記す資料もありますが、数え方の違いとみられます。このページは、日付から数えた満年齢を書いています。
2. 戦没地は、海域を特定して書きません 🟢 確か
原本の記録の言葉は「南西諸島方面にて特攻戦死」です。「方面」まで含めて、原本の表記で、どの海域かを特定した書き方にはなっていません。このページは、よく見かけるもっと狭い海域名に言い換えることをしません。地図のピンも、この「方面」を海の上の概略として置いています(正確な地点ではありません)。
3. 「元山海軍航空隊」は、二つあります 🟢 確か
同じ名前の部隊が、時期を分けて二つ存在します。初代は1940年(昭和十五年)に第十五航空隊を改編して編成され、1942年に戦闘機隊を第二五二海軍航空隊として分離、同年第七五五海軍航空隊に改称しました。二代は1944年8月15日、大村海軍航空隊の元山分遣隊が独立して新編された戦闘機搭乗員の訓練部隊です。
1945年の話は、すべて二代のほうです。初代や第二五二海軍航空隊の戦歴は、このページでは一切扱いません。名前が同じというだけで、別の部隊の記録を混ぜないためです。
4. 1945年の元山空の記述には、出典の注記が付いていません 🟡 諸説
七生隊の結成日と各作戦の出撃機数(②と⑥)は、日本語版ウィキペディア「元山海軍航空隊」の「二代元山海軍航空隊」の節に置かれた年表から取っています。この年表の各行には、個別の出典が示されていません。記事の冒頭には「脚注の不足」の注記(2017年5月)が付いたままで、参考文献の欄には戦史叢書ほかの書名が挙げられていますが、どの行がどの本に拠るのかは辿れませんでした。
だから、これらはすべて🟡として扱います。数字を強く言わないのは、そのためです。
5. この本には、「林」がもう一人います 🟢 確か
その遺稿集には、林尹夫(はやし・ただお)——京都帝国大学から海軍へ進み、『わがいのち月明に燃ゆ』で知られる人——の遺稿も収められています。別人です。同じ本、同じ大学、同じ姓のため、資料をあたるときに取り違えが起きやすい組み合わせです。このページの逐語は、pp.186-189 の紙面を画像で確かめたうえで引いています。
6. 引用の根拠 🟢 確か
林市造(1922-1945)本人の文章は、著作者の死後の保護期間が満了しています。だから全文を載せられます。一方、その遺稿集の編者による解題・注・見出しなどは、別の著作物です。このページが引いているのは、本人の文面と、本に印刷された名前の欄だけで、編者の文章は引いていません。
7. 顔写真は、載せていません ⚪️ 裏付けなし
林市造の肖像写真は、公開されている範囲でいつ最初に公表されたのかを辿れませんでした。日本の法律で写真の保護期間を判断するには公表の時期が要るため、それが確かめられない写真は使いません。参照した文庫版にも口絵の写真はありませんでした。権利が確かめられたら載せます。それまでは載せない、という運用です。
8. 遺稿集別の遺稿集は、読んでいません ⚪️ 裏付けなし
林市造には、日記を含む別の遺稿集があるとされます。このページでは使っていません。このページと動画は、その遺稿集に収められた手紙だけで組んでいます。日記の中身には触れていません。
9. 母の側の記録は、確かめていません ⚪️ 裏付けなし
「母は志願に反対していた」というのは、手紙のなかの「母チャンが私にこうせよと言われたことに反対して、ここまで来てしまいました」から読めることです。母・林マツヱの側に手記があるとされますが、所在も内容も確かめていません。反対の理由や、手紙を受け取ったあとのことは、このページには書けません。
⑥ 最後に、ひとつ——四月十二日、十九機
手紙が書かれたのは、出撃の二日前。その二日後、1945年4月12日です。
この日、菊水二号作戦が発動されました。年表には、一行、こうあります。
4月12日 「菊水二号作戦」発動、七生隊19出撃。2機帰還。
出典=日本語版ウィキペディア「元山海軍航空隊」>「二代元山海軍航空隊」の年表(参照 2026-08-02)。⚠️この行には個別の出典が示されておらず、記事全体に「脚注の不足」の注記が付いています。確度は🟡です(⑤の4)。
十九機が出て、二機が帰ってきた。
⚠️この二機が誰の機だったかは、書かれていません。帰ってきた理由も分かりません(機体の不調で引き返す例があったことは知られていますが、この日のことは確かめられていません⚪️ 裏付けなし)。分かるのは、出た数と、戻った数だけです。林市造は、原本の記録では同じ日に亡くなっています。
同じ4月12日に、陸軍の側でも出撃がありました。第20振武隊の穴澤利夫(福島県喜多方市出身・特別操縦見習士官一期)が、知覧飛行場から出ています🟡 諸説。陸軍と海軍、別々の基地から、同じ日付で。名前は、部隊の名簿のほうに載っています。
写真で見る
このページには、載せていないものが二つあります。手紙の現物の写真(⑧のとおり、紙そのものの所在を確かめていません)と、林市造の顔写真(⑤の7のとおり、最初に公表された時期を辿れませんでした)です。
ここに並ぶのは、出どころと権利を一点ずつ確かめた写真だけです。本人が写っているものは、一枚もありません。手紙に出てくる場所と、手紙に積むと書いてあった物の、同じ時代の姿です。
福岡と、京都
1943年——学徒出陣
積むと書いてあったもの
手紙には、飛行機に何を積むかが書いてあります。聖書と、讃美歌と、学校でもらった徽章と、母からもらったお守り。そのうち二つは、同じ時代の刊行物が残っています。
元山——最後にいた基地
歌の人
出撃の前
⑦ むすび
手紙に書いてあるのは、母のことばかりです。幸福だったこと、我ままをとおしたこと、抱かれて寝たかったこと、姉たちのこと、孫のこと、飛行機に積むもの——聖書と讃美歌と、学校でもらった徽章と、母からもらったお守り。そのあいだに一行だけ、「母チャンのいわれるようにした方がよかったかなあとも思います」が挟まっています。選んだことと、選んだことへの迷いが、同じ紙の上に並んでいる。そのどちらも消さずに書いて、最後に「絶対に他人にみせないで下さいね。やっぱり恥ですからね」と付け足した。その紙が、同期の会の手で本になり、いま全文で読めます。本人が恥と呼んだ甘えのほうが、八十年残りました。
⑧ このページについて
本作および本ページは、刊行された遺稿集の紙面と、公開されている情報にもとづいて制作しています。林市造本人の文章は、著作権の保護期間が満了しています🟢 確か。逐語は、その紙面を画像で拡大し、目視で照合して転写したものです。手紙の現物(紙そのもの)の写真は使っていません——所在を確かめていないためです。1945年の部隊の動きについては、出典の注記が付いていない記述に頼っている部分があり、そこは🟡と明示しました(⑤の4)。表現についてのご意見は歓迎します。
出典
逐語・名前の欄=林市造 書簡:第十四期会編の遺稿集pp.186-189(本人の文章は保護期間満了)。
部隊の沿革・1945年の作戦日程=日本語版ウィキペディア「元山海軍航空隊」(「二代元山海軍航空隊」の節・参照 2026-08-02)https://ja.wikipedia.org/wiki/元山海軍航空隊。⚠️年表の各行に個別の出典表示がなく、記事に「脚注の不足」の注記あり=確度🟡。
歌の出どころ=日本語版ウィキペディア「吉田松陰」(「松陰の和歌」の節・参照 2026-08-02)。⚠️当該一首に個別の出典表示なし=確度🟡。処刑の日付(安政六年十月二十七日)は同記事の本文(出典表示あり)。
同じ4月12日の陸軍側=本サイト振武隊の名簿(原記述は日本語版ウィキペディア「振武隊」・確度🟡)。
⚠️英語圏の特攻関連サイトには人物の取り違えが疑われる記述があり、参照していません。
このチャンネルは、資料の選定・事実の検証・言葉の解釈と最終判断を、すべて人間が行っています。制作の一部(音声合成・画像の様式化・翻訳補助)にAIを使っています。詳しくは制作方針へ。
動画で見る/次の一枚へ
次の一枚を、探しにいきます。チャンネル登録と、この動画の高評価が、その力になります。
YouTubeで見る・登録 → 振武隊の名簿(同じ4月12日)→ あす、自由主義者が一人(上原良司・#001–004)→ 学徒出陣とは → 地図(/map)で辿る → 紙片の蔵(目次)→
この記事の事実は、制作者の蔵書と公開されている情報にもとづいています(主な出典は 動画の概要欄 にも)。林市造本人の文章は著作権の保護期間が満了しています。出典の注記が確かめられなかった記述は、本文中に🟡・⚪️で示しています。
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