三枚の紙と、三十四人
ペリリュー島、一九四七年
一九四七年。戦争が終わって一年七か月がすぎたころ、パラオのペリリュー島に、まだ三十四人の日本兵が残っていました。島の木に紙が吊るされます。書いたのは日本の海軍少将。肩書きも署名も本物でした。それでも、壕の中の答えは「偽物だ」でした。
このページは、本編で語りきれなかった全体像を、確かめられた事実で辿り直す場所です。どこまで確かなのかを、一つずつ添えました。
この島で起きたこと 三月から五月までの全体像 🟢 確か
一九四四年九月、この島で日本軍と米軍が戦い、島は米軍が占領した。それから二年半、洞窟にこもったまま出てこなかった人たちがいた。人数は三十四人。歩兵第二連隊の生き残りを中心に、海軍の兵も混じっていた。
一九四七年三月、米海兵隊は三週間にわたって彼らを探している。島には米海軍の家族が三十二世帯住んでいて、万一の突撃に備えていた。三月二十三日、島の木に一枚目の紙が吊るされる。三月三十一日、二枚目。どちらも元海軍第四艦隊参謀長・澄川道男少将の名で書かれていたが、壕の中では「米軍のスパイだ」と退けられた。
四月二日の夕方、仲間のひとりが空き缶を捨てに壕を出て、島の人に見つかる。四月三日、上等水兵・土田喜代一が米軍のもとへ歩いていった。四月二十一日午前十一時ごろ、壕の前で紙が読み上げられる。読まれたのは命令ではなく、家族から届いた手紙だった。
以下は、この二か月をめぐって確かめられたことの一覧。本編で置ききれなかった細部を、確度のラベルつきで置いています。
① 米国の新聞が伝えたこと 🟢 確か
ワシントンの夕刊紙 The Evening Star が、AP電で二日続けて伝えている。四月二十二日付 五面と、四月二十三日付 八面。
PELELIU, April 22.—Finally convinced that the war is over, 26 Japanese soldiers and sailors formally surrendered to the Americans on this Pacific island yesterday, two-and-a-half years after it was occupied by United States Marines.
降伏式のようすも、同じ記事にある。
Led by Lt. Yamaguchi, the Japanese marched up ceremoniously to the front of the former Japanese headquarters. Eighty Marines in full battle kit stood at attention as Yamaguchi handed his sword and battle flags to Navy Capt. L. O. Fox, commandant of the Palau Islands.
米海兵隊が三週間探し続けていたこと、島に三十二世帯の米海軍の家族が住んでいたことも、同じ紙面に書かれている。
② 誰が、どこから歩いてきたか 🟢 確か
降伏の段取りをつけたのは、上等水兵の土田喜代一だった。新聞にこうある。
The surrender was arranged through Superior Seaman Tsuchida. He walked in April 3 and said the others believed that the Americans held only the Palaus.
そして、彼は手ぶらで戻ったわけではない。
Tsuchida was sent back with letters from the holdouts' families in Japan and from former officers in the Palaus, all assuring them the war was over and that they would be repatriated.
日本にいる家族からの手紙。それが、島へ運ばれていた。
③ 総理大臣の名前で出された紙 🟢 確か
同じころ、日本の側でも紙が作られている。国立公文書館に残る「ペリリュー島残留軍人に対する総理の勧告文」。作成者は内閣総理大臣・吉田茂、起案は第一復員局。宛先は「ペリリユー島残留将士一同」となっている。
玆に復員庁総裁、諸子の上官、家族等からの書翰其の他の参考文書を添へ、聯合軍側に依托して諸子に此の手紙を送る
家族からの手紙を添えて送ると、日本の政府の紙にも書いてある。米国の新聞が伝えたことと、同じ手続きが、別の紙に別の言葉で残っていた。
諸子は軽挙を避けつゝ全員揃つて内地に帰還の上、祖国再建に従事し…天皇陛下の宸襟を安んじ奉ると共に、一億国民の祈念に応して已まない所である
④ 余白に、あとから書き足された一行 🟢 確か
この勧告文には、印刷された本文のほかに、手で書き足された一行がある。欄外の左端。本文から引き出し線が伸びて、入れる場所まで指定されている。
諸士の肉親、家族も 一日千秋の思ひで之を待つてゐるのである
書いた人は、この一行を推敲している。「肉親、家族」の字に傍点が打たれ、「一日千秋」の頭には縦の消し線が二本入っている。総理大臣の名前で出す紙の余白で、誰かが言葉を選び直していた。
なお署名面の日付は、「昭和二十二年」「月」「日」が活字で、月の数字と日にちの数字はどちらも手書きの崩し字である。起案は四月二十一日(閣甲第二三一号)、案文の日付は四月十日と記録にある。
⑤ 部隊の紙に残った、行かなかった記録 🟢 確か
戦後、留守業務部が作らせた「部隊行動概見表」に、歩兵第二連隊の一枚がある。防衛省防衛研究所所蔵。
- 固有部隊名=歩兵第二連隊/通称号=照七七四六部隊
- 編成地=満洲黒河省/補充担任部隊=水戸東部三七部隊
- 終戦時位置=パラオ諸島ペリリユー島玉砕
- 復員年月日=昭和二十二年五月十五日(一部生還者)
行動概要の欄には、こう書かれている。
昭一九・一二・三一 部隊全員戦死と認定
生存者二二名 山口少尉指揮 浦賀上陸復員す
一九四四年の暮れに、この部隊は全員戦死と認定されていた。家族のもとに戦死の報せが届いた根拠は、この認定である。そして二年半のち、そのうちの何人かが帰ってきた。
この表を作成したのは「元少尉 山口 永」。壕を出た三十四人を率いて降伏式に臨んだ、その人である。読みは記録に残っていない。
⑥ 帰りは、配船表の一行だった 🟢 確か
引揚の記録にも、彼らは出てくる。「終連報丙第五一一号」昭和二十二年五月十二日、第一復員局史料調査部。防衛省防衛研究所所蔵。
南方からの配船帰還状況の表に、こう並んでいる。五月十日 大安丸 佐世保着。五月十日 日本丸 呉着。熊野丸 バタビアより。そして、
五月十五日 V二〇八 横浜着 ペリリユウー島残留者
船の名は V208。二年半ぶりに島を出た人たちの帰りは、ほかの船と同じ書式の、同じ一行として記録されている。
⑦ 写真で見る
いずれも所蔵機関が公開している資料です。三十四人本人や家族を写したものではありません。
⑧ 諸説・確かめられなかったこと
人数と日付が、記録によって違う 記録により異なる
当時の新聞は、四月二十一日に二十六人、翌二十二日に七人、合わせて三十三人と伝えている。のちの記録は三十四人。日付は二十二日とも二十四日とも書かれている。どれが正しいかは、ここでは決めない。
なお部隊行動概見表の「生存者二二名」は、歩兵第二連隊だけの数である。三十四人は島に残っていた人の総数で、海軍の兵も含まれる。数えている範囲が違う。
四月二日と四月三日 記録により異なる
仲間のひとりが空き缶を捨てに壕を出て見つかったのが四月二日の夕方。土田喜代一が米軍のもとへ歩いていったのが四月三日。新聞は "He walked in April 3" と書いている。この二日が同じ出来事の別の日なのか、別の出来事なのかは、記録からは決まらない。
山口少尉の名前の読み 🟡 一つの資料による
部隊行動概見表に「元少尉 山口 永」とある。英語の記録では "Lt. Ei Yamaguchi"。ただし日本語での読みは、確かめられなかった。
澄川少将の肩書き 記録により異なる
日本側の経歴では、終戦時の役職は第四艦隊参謀長である。一方 The Evening Star は "Admiral Michio Sumikawa, former commandant of the Caroline Islands" と書いている。第四艦隊は内南洋を担当し、司令部はカロリン諸島のトラック島にあった。外から見た呼び方の違いである。
置き手紙 🟡 一つの資料による
土田は壕を出る夜、仲間に宛てて紙切れを残していったという。青鉛筆で、島づたいに泳いで様子を見て帰る、と。仲間が散ってしまわないための嘘だった。晩年の本人の記述に、この紙はいまも家にある、とある。
四枚目の紙は、間に合っていない 🟢 確か
総理の勧告文の起案は四月二十一日。壕の前で家族の手紙が読み上げられたのと、同じ日である。三十四人は、総理大臣の名前で書かれた紙を見ないまま、壕を出た。彼らを動かしたのは、肩書きのない紙のほうだった。
出典
- The Evening Star(ワシントン)一九四七年四月二十二日 五面/四月二十三日 八面=Chronicling America, Library of Congress
- 「ペリリュー島残留軍人に対する総理の勧告文」昭和二十二年(一九四七)四月=国立公文書館
- 「終連報丙第五一一号」昭和二十二年(一九四七)五月十二日=防衛省防衛研究所
- 「部隊行動概見表 歩兵第二連隊」=防衛省防衛研究所
- Peleliu, Palau Islands. Series W854, 1:12,500. U.S. Army Map Service, 1946=PCL Map Collection, University of Texas at Austin
- 写真=Wikimedia Commons
引用はすべて原文ママです。旧字・歴史的仮名遣いも紙面のままにしています。
🟢=一次資料で確かめたもの/🟡=出典はあるが一つだけのもの/⚪️=出どころが分からないもの