「サクラ」
——予約された最後の言葉と、余白の一行
1944年(昭和十九年)11月22日の朝、パラオ諸島・ペリリュー島から、一通の電報が打たれました。軍旗を処置したこと。機密書類を処理したこと。そして——最後の電報は「サクラ」を連送する、と。
言葉の意味を、先に届けておいたのです。その二日後の午後四時、「サクラ」だけが海を渡りました。
受け取った側は、二日前のその電報の左の余白に、あとから縦書きで小さく書き足しています。「十一月二十四日 一六〇〇 「サクラ」電受」。書いた人の名前は、どこにも残っていません。
このページは、動画で語りきれなかったことを、確かめられた事実で辿り直す場所です。この回は、電報綴の原本が主役です。逐語は、国立公文書館アジア歴史資料センター(JACAR)が公開している原画像を拡大して、一字ずつ読み取ったものだけを載せます。旧字は、原文のままにしてあります。
① どこの、なんという紙か
出どころは、第14師団の電報綴です。昭和十九年十一月に南の島から届いた電報を、受け取った側が綴じたもので、いまはアジア歴史資料センターで画像が公開されています。
この回で読んでいる綴
JACAR Ref. C23110012700 「大東亜戦争 電報綴 第14師団 昭和19年11月」(防衛省防衛研究所)=全50コマ
JACAR Ref. C24070981300 歩兵第2連隊 戦況報告(11月24日)
JACAR Ref. C23110012000 同 電報綴 昭和19年6月(=⑤の6で触れる、五か月前の電文)
⚠️目録の「内容」欄の翻刻と、原画像の字が食い違っていることがあります(六月綴では、電報番号と本文の二か所で違っていました)。このページが引いているのは、いずれも原画像のほうです。目録は索引で、正本は画像です。
⚠️この綴の画像は防衛省防衛研究所の提供分で、映像や出版物への画像そのものの利用には所蔵機関への照会が要ります。このページは、文書の中身を引用の形で載せています(画像は貼っていません)。
② 電報——原文で
凡例は⑤のとおりです。🟢=原本の画像で一字ずつ確かめられたこと/🟡=資料により異なる・出典の注記がないこと/⚪️=裏付けが取れていないこと。読み下しは、原文の語をそのまま現代の仮名に開いたものです。
(1)11月8日——「安易に玉砕することなく」 🟢 確か
島の地区隊から「全員切込」の覚悟を伝える電報が上がったのに対して、パラオ本島の井上貞衛集団司令官が返した厳命です。
安易に玉砕することなく、苦しくとも健在し、飽く迄持久に徹すること
出典=防衛省防衛研究所ウェブサイト「史料のなかの軍人たち」井上貞衛の項(戦史叢書所収の電文に基づく記述)。⚠️このページで唯一、原画像でなく研究所の公開ページから引いている電文です。
(2)11月21日——祝電 🟢 確か
「サクラ」の三日前です。前日20日の戦況上奏を受けて、天皇の言葉を伝える電報が、同じ島に届いていました。集団司令官発・緊急親展。
原文
本二十日貴隊ノ奮戦ニ對シ畏クモ寡兵尚ク克ク健闘シアルコトニ関シ 御嘉尚ノ御言葉ヲ賜ハレリ 右謹ミテ傳達ス
読み下し
本二十日、貴隊の奮戦に対し、畏くも、寡兵なお克く健闘しあることに関し、御嘉尚の御言葉を賜われり。右、謹みて伝達す。
出典=JACAR Ref. C23110012700(頁1112)。同じ日、部隊長宛に「歩二電第一七六號」(感状の件が上聞に達した旨)も届いています(頁1111)。⚠️このページは、この事実を並べるだけで、皮肉として書きません。
(3)11月22日——予約の紙(歩二電第一七七號) 🟢 確か
この電報は二枚組です。前の紙に「最後の電報をこうしたい」という申し出があり、次の紙に軍旗の処置の報告があります。約束と、報告と、受領の書き込みが、三枚で完結しています。
原文(申し出/頁1113-1114)
通信断絶ノ顧慮大トナレルヲ以テ最後ノ電報ハ左ノ如ク致シ度……
右ノ場合「サクラ」ヲ連送スルニ付 報告相成度(終)
読み下し
通信断絶の顧慮大となれるをもって、最後の電報は左のごとくいたしたく……右の場合、「サクラ」を連送するにつき、報告相成りたく。(終)
原文(本文/頁1115)
歩二電第一七七號 一、軍旗ヲ完全ニ處置シ奉レリ 二、機密書類ハ異狀ナク處理セリ(終)
読み下し
歩二電第一七七号。一、軍旗を完全に処置し奉れり。二、機密書類は異状なく処理せり。(終)
本文は、これで終わりです。「(終)」までが電文で、二項だけしかありません。
出典=JACAR Ref. C23110012700(第3〜5画像目・頁1113-1115)。⚠️軍旗の処置の日付には、この電報と、次の(6)の特報とで二つの記述があります(⑤の2)。
(4)11月24日 10時30分——歩二電第一八一號 🟢 確か
原文(冒頭/頁1122)
一、敵ハ二十日來我主陣地中枢ニ侵入 昨二十三日各陣地ニ於テ戦斗シツツアリ 本二十四日以降特ニ状況切迫 陣地保持ハ困難ニ至レリ
読み下し
一、敵は二十日来、我が主陣地中枢に侵入。昨二十三日、各陣地において戦闘しつつあり。本二十四日以降、特に状況切迫。陣地保持は困難に至れり。
同じ電文のなかに、数が並びます。健在者約五〇名。重軽傷、計約一三〇名。弾薬約二〇発。糧秣は概ね二十四日をもって欠乏。そして、締めくくりに——遊撃戦斗ニ移行、飽ク迄持久ニ徹シ、士気マスマス旺盛ナリ。
出典=JACAR Ref. C24070981300(頁1122)/同 Ref. C23110012700(第12〜13画像目)。「持久ニ徹シ」は、(1)の11月8日の厳命と同じ言葉です。
(5)11月24日 16時——「サクラ」と、余白の一行 🟢 確か
二日前の(3)の紙の左の余白に、あとから縦二列で書き足された一行があります。鉤括弧まで、原本に実在します。
原文(後筆・余白/頁1115)
十一月二十四日 一六〇〇
「サクラ」電受
出典=JACAR Ref. C23110012700(第5画像目)。予約の紙の上に、受領の瞬間が書き込まれています。書いたのは、綴に名前の残らない通信担当者です。
受けた電文そのものの文面は、この綴には残っていません。受電した側の記録に、こう書き留められています。
サクラサクラサクラ ワガシユウダンノケントウヲイノル ワレクノゴチヨウ
出典=伊藤敬人「『サクラ・サクラ』を受電して」(『水戸歩兵第二聯隊史』1988 所載)。同書のほか戦史叢書、個人の記録の三系統で文面が一致します🟢 確か。⚠️同書は著作権の保護期間中です。引用は最小限にとどめ、書誌を常に表示しています。
「ワガシユウダンノケントウヲイノル」——我が集団の健闘を祈る。最後の電文に続いていたのは、自分たちの報告ではなく、残る側への祈りでした。
予約した人と、打った人と、書き留めた人。……三つとも、別の手なんですね。
(6)11月24日——照参謀長 状況特報 第二 🟢 確か
原文(頁1126)
一、ペリリューノ戦況ニ鑑ミ守備部隊ハ本二十四日一六〇〇謹ンテ軍旗ヲ處置シ奉レリ
二、同時機秘密書類ヲ完全ニ處理セリ
三、守備部隊ハ根本大尉以下五六名ヲ以テ一七組ノ斬込隊ヲ編成シ本二十四日夜以降……
読み下し
一、ペリリューの戦況に鑑み、守備部隊は本二十四日一六〇〇、謹んで軍旗を処置し奉れり。
二、同時機、秘密書類を完全に処理せり。
三、守備部隊は、根本大尉以下五六名をもって一七組の斬込隊を編成し、本二十四日夜以降……
出典=JACAR Ref. C23110012700(頁1126・第16〜17画像目)。⚠️この特報の続きには、当時の定型の言い回しが並びます。このページは、そこを逐語では引きません(⑤の5)。
斬り込みの人数は、ここで一次資料が答えを出しています。二次の本には五十五名と書くものもありますが、原本は「五六名」「一七組」です(⑤の3)。
(7)11月24日——訣別の電報 🟢 確か
同じ日、島からは別れの電報も打たれました。感状を授けられたことへの礼のあとに、こう続きます。
原文(頁1134-1135)
……其ノ大任ヲ完遂シ得ス 光輝アル軍旗ト幾多ノ股肱トヲ失ヒ奉リ 誠ニ申譯ナシ
二、塚田中尉ハ最後迄奮斗セリ
三、地区隊長以下ノ健闘ヲ歎賞ス
読み下し
……その大任を完遂し得ず、光輝ある軍旗と、幾多の股肱とを失い奉り、誠に申し訳なし。
二、塚田中尉は最後まで奮闘せり。
三、地区隊長以下の健闘を歎賞す。
出典=JACAR Ref. C23110012700(頁1134-1135)。署名は村井権次郎少将。「股肱(ここう)」は、手足のようにはたらいた部下のことです。
最後の電報が、詫びの言葉でした。
⚠️この訣別電の末尾には、当時の定型の一行が付いています。七生報国の言い回しと、敵を指す蔑称と、殺害を意味する語を組み合わせた文です。そういう一行が原本に実在するという事実は、隠しません。ただし逐語は、このページにも本編にも載せません——十七の言語に運んだときに、当時の定型としてではなく、いまの言葉として読まれてしまうからです。同じ理由で、(6)の特報の続きの一節も引いていません。
③ 予約から、受領まで——時刻と、受付番号
この綴のいちばん面白いところは、電文の中身ではなく、欄外です。起案の時刻、発信の時刻、受信の時刻、翻訳の終わった時刻、受付の番号、押された印。事務の跡が、そのまま残っています。
- 🟢 確か 11月8日——井上貞衛集団司令官から「安易に玉砕することなく……飽く迄持久に徹すること」(②の1)。
この時点で、戦い方の方針が「持久」に固定されます。 - 🟢 確か 11月20日——戦況が上奏される。その扱いの電報が「照参電第三四七號」として綴じられています(頁1120-1121)。
- 🟢 確か 11月21日——祝電が届く(②の2)。緊急親展。同日、感状の件を伝える「歩二電第一七六號」も。
- 🟢 確か 11月22日 07:40 起案 → 08:01 発信——歩二電第一七七號。軍機親展・発信地ペリリュー・発信者「歩二長」・宛先は師団長。
受信 08:49。翻訳の終わりが 09:20。受付番號 36。決裁の印が四つ(司令官・参謀長・参謀・情報班長)。暗号を受け取ってから、意味のある日本語になるまでに三十一分かかっています。 - 🟢 確か 11月23日——この日付の電報は、綴にありません。
前日に「最後はサクラを連送する」と知らされた側は、この一日、受信室で待っています。来ないことが、いい報せでもある一日でした。 - 🟢 確か 11月24日 10:30——歩二電第一八一號(②の4)。健在者約五〇名。弾薬約二〇発。士気マスマス旺盛ナリ。
- 🟢 確か 11月24日 16:00——「サクラ」電受。二日前の紙の余白に、そう書き足されます(②の5)。
- 🟢 確か 11月24日——訣別の電報(②の7)。そして照参謀長の状況特報第二=根本大尉以下五六名・一七組の斬込隊(②の6)。
- 🟢 確か 11月29日——歩兵第2連隊に感状が授与される(⑦)。
中川州男大佐は、11月24日に玉砕を伝える電文を司令部に送り、自決しました(常陸大宮市の公式広報=市の文書館監修の表現)🟢 確か。このページは、その事実をここで止めます。最期の場面の細部は、書きません。
上陸の9月15日から、この日まで71日です(数え方については⑤の1)。
受付番号を書いて、翻訳の時刻を書いて、印を四つ押して。……最後まで、事務が動いてるんです。
④ どれくらいの戦いだったか——敵側の公式記録で
この戦いの激しさを、番組の言葉では書きません。アメリカ側の公刊戦史から引きます。米政府の職務著作なので保護期間の問題がなく、そして敵側の公式記録だから、煽りになりません。
1. 「太平洋戦争全体で、最も過酷」 🟢 確か
the battle for Peleliu was the toughest in the entire Pacific war
ペリリュー攻略の総指揮官・ガイガー将軍(第3水陸両用軍団司令官)が繰り返し断言したと、海兵隊の公刊戦史の冒頭が記しています。
出典=Frank O. Hough, The Assault on Peleliu(U.S. Marine Corps, 1950)Ch.1。
2. 「四日以内に攻略できる」——師団長の見通し 🟢 確か
上陸の前日、第1海兵師団長ルパータス少将は、部下への書簡に「非常に苦しいが非常に短い戦いになる。四日以内に攻略できる」と書きました。
出典=同書 Ch.2。⚠️よく引かれる「three days, maybe two(三日、たぶん二日)」という言い回しは公刊戦史にありません。二次の本に出てくる形なので、このページでは使いません⚪️ 裏付けなし。
3. 兵力——守る側と、上陸する側 🟡 諸説
守備隊は、陸海軍あわせて約一万五百。米側が上陸前に見積もった数で、公刊戦史自身が「proved so accurate(きわめて正確だったことが判明した)」と書いています。内訳は——歩兵第2連隊 3,283(砲兵一個大隊を含む)、陸軍の戦闘部隊 計約5,300、海軍の戦闘部隊 800〜1,000、海軍設営 2,000〜2,200、航空基地要員 2,220。総計 10,320〜10,700。
上陸したのは、増強された第1海兵師団。ここで数字が割れます。
- 約28,400——米陸軍の公刊戦史(Smith, The Approach to the Philippines, 1953, p.471)の「1st Marine Division, reinforced 28,400」。⚠️同書自身が脚注で、「史料間で数字が一致せず、この食い違いは現存する文書からは解消できない」と書いています。
- 約25,000——米海兵隊の公刊戦史(Garand & Strobridge, 1971)のD-Day揚陸計画から計算した数(戦闘海兵8,000+増強師団の残り17,000)。
⚠️「上陸初日に実際に何人が上がったか」の確定値は、どちらの公刊戦史にもありません。このページは、幅があるという事実ごと書きます。どちらか片方に丸めません。
出典=Hough 1950 Ch.2/Smith 1953 Ch.XIX p.471(脚注42)/Garand & Strobridge 1971 Part III Ch.2。
4. 第1海兵連隊——一週間で 🟢 確か
上陸から一週間で、第1海兵連隊の死傷は1,749名。損耗率は56%とも58%とも記されます——同じ公刊戦史のなかで、章によって数字が違います。第1大隊は71%。九個小隊の残存が74名で、もとの小隊長は一人も残りませんでした。
the 1st Marines, as an assault unit ... had ceased temporarily to exist
——突撃部隊としての第1海兵連隊は、一時的に存在しなくなった。
出典=Hough 1950 Ch.4(脚注60)/Ch.7。海兵隊全体の損害は死傷6,526名、うち戦死等1,252名(USMC人事記録局1950年確定値・Ch.9)。
5. 「太平洋で、初めてのことだった」 🟢 確か
there were no frantic, futile banzai charges ... for the first time in the Marines' experience in the Pacific, the Japanese made good their tactic of exacting a maximum toll of their enemies
無謀なバンザイ突撃が、一度もなかった。それは太平洋での海兵隊の経験で初めてのことだった——と、公刊戦史が書いています。中川大佐は、浜辺の決戦をせず、五百を超える洞窟に陣地を築き、突撃を禁じました。
同じ書は、中川の統率が及ばない地区は「一個連隊・わずか四日」で落ちたのに、中川自身が指揮した本丸(ウムルブロゴル)には「五個連隊が交代であたって数週間から数か月」かかったと記し、本文で彼を the stout / doughty Colonel Nakagawa(不屈の中川大佐)と呼んでいます。
出典=Hough 1950 Ch.9 p.180/Ch.6/Ch.8。
6. 島の条件——四十六度と、掘れない岩 🟢 確か
上陸二日目、日陰で華氏105度(約40.6℃)、最高115度(約46℃)。四日目には、熱射病による離脱者が戦傷者と同数に達しました。これは Time 誌の従軍記者ロバート・マーティンの記述を、公刊戦史が全文引用しているものです。
前線への飲料水は、洗浄した油のドラム缶と5ガロン缶で運ぶほかありませんでした。⚠️「その水で兵が病んだ」という因果は公刊戦史に書かれていません。よく見る話ですが、このページは「ドラム缶で運ばれた」という事実で止めます⚪️ 裏付けなし。
地面は硬い珊瑚石灰岩で、突撃した側は塹壕を掘ることすらできませんでした。守る側には、その岩盤を削り、爆破して陣地を作る時間がありました。「剃刀のような尾根と、裸の斜面の迷路」と書かれています。
出典=Hough 1950 Ch.5 p.94「A Horrible Place」/Ch.4/Ch.9。
7. 日本側の戦死 🟡 諸説
ペリリューでの日本側の戦死は3,317名、うち茨城県出身が1,980名とされます(『水戸歩兵第二聯隊史』1988)。⚠️この種の数字は資料によって差があります。このページは、出典を添えて置くだけで、断定しません。
⑤ もっと深く——諸説あり
凡例:🟢=原本の画像や公刊の記録で確かめられること/🟡=資料により異なる・出典の注記がないこと/⚪️=裏付けが取れていないこと。分からないことは、分からないと書きます。
🟢 確か原本・公刊で確かめられること 🟡 諸説資料により異なること ⚪️ 裏付けなし裏付けが取れていないこと
1. 「71日」と「73日」——どちらも間違いではありません 🟡 諸説
71日は、9月15日の上陸から、11月24日の最後の電報まで=日本側の紙が終わった日を終点にした数え方です。73日は、米軍が組織的抵抗の終了とした11月27日を終点にした数え方です。終点をどこに置くかの違いで、どちらかが誤りというわけではありません。このページと本編は、電報綴を追う回なので71日で通しています。
2. 軍旗を処置した日は、二通りに書かれています 🟡 諸説
11月22日の歩二電第一七七號は「軍旗ヲ完全ニ處置シ奉レリ」と完了形で書いています。一方、11月24日の照参謀長の特報は「本二十四日一六〇〇謹ンテ軍旗ヲ處置シ奉レリ」と書いています。
考えられるのは二つ——(a) 22日にはすでに処置されていて、24日の「サクラ」受信をもって、上級司令部が正式に報告した。(b)「サクラ」が処置実行の合図だった。このページは、どちらとも断定しません。「22日の電文で報告され、24日16時のサクラで確定した」——両方の記述と矛盾しない書き方で置いています。
なお軍旗は、連隊にただ一つ、天皇からじかに授けられる旗です。歩兵第2連隊がそれを受けたのは明治七年(1874)十二月十九日。処置された年で、ちょうど七十年でした🟢 確か。
3. 斬り込みは五十五名か、五十六名か——原本が答えました 🟢 確か
二次の本には五十五名と書くもの(岡村青『サクラサクラサクラ 玉砕ペリリュー島』2018)と、五十六名と書くものがあります。原本は「根本大尉以下五六名ヲ以テ一七組ノ斬込隊ヲ編成」です(②の6)。
このページは、原本の数字を採ります。「五十余名」と丸めれば両説と矛盾しませんが、原本が一字で書いているものを、わざわざ曖昧にする理由がありません。
4. 「一兵といえども過早の出撃は許さぬ」は、使っていません ⚪️ 裏付けなし
中川大佐の言葉として、一般の記事に頻出する一文です。ただし、一次の出どころを特定できませんでした。孫引きが疑われるため、このページも本編も使いません。言い回しが中川の指揮の実際とよく合っているぶん、余計に、確かめずには置けません。
5. 引かなかった一行があります 🟢 確か
訣別電の末尾と、照参謀長の特報の続きには、七生報国の言い回しと、敵を指す蔑称と、殺害を意味する語を組み合わせた定型の一行が、それぞれ実在します。実在するという事実は、隠しません。当時の軍の電文には、そういう決まり文句があった、ということです。
それでも、逐語は載せません。本編には十七言語の字幕が付きます。当時の定型として読める文脈ごと運ぶことができず、いまの言葉として受け取られてしまうからです。引かない理由を書いておくことが、いちばん正直だと考えました。
6. 電文は、五か月で痩せています 🟢 確か
同じ第14師団の電報綴の、六月の頁をめくると、電文はもっと長いのです。原本(Ref. C23110012000 コマ3・発信者欄は「軍司令官」)には、こうあります。
原文
參電第一二五號ヲ拝誦シ愈々責任ノ重大ナルヲ銘肝ス 小官事志ト違ヒ直接PS方面ノ戰斗ヲ指揮シ得ザルハ最モ遺憾トスルモ 左PS隷下部隊ハ必ズヤ其任務ヲ完遂シ御期待ニ副フベキヲ確信ス 小官又萬難ヲ排シ状況之ヲ許ス限リ速ニPS帰任ノ……
心情を書く行が、まだあります。それが、十月末には在庫の数字だけになり(小銃一九〇、同弾薬一〇、六〇〇、軽機八……手榴弾五〇〇、火炎瓶一〇、戦車地雷二〇)、十一月二十四日には一語になります。
出典=JACAR Ref. C23110012000(コマ3)。⚠️最終列(「PS帰任ノ……」以降)は紙の左端で字が小さく、判読できていません🟡 諸説。発信者欄は職名だけで、人名の記載がありません。だれの電報かは、このページでも特定しません。十月末の在庫報告の逐語は『太平洋戦争連隊戦史』p.93 によります。
7. 「水府山」——確かめられていません 🟡 諸説
連隊が拠った島の山の名として、大山・東山・水府山・観測山が記録されています。「水府」は、水戸の異称です。故郷の名を、島の山に付けたのかどうか——まだ確かめられていません。該当頁は文字起こしの段階で、原本の画像との照合が済んでいません。第二の出典も見つかっていません。確かめられたら、書きます。
8. 中川州男の年齢 🟢 確か
1898年(明治三十一年)1月23日、熊本県玉名の生まれ。父は小学校の校長で、三男でした。玉名中学から陸軍士官学校第30期。1943年3月に大佐、6月に歩兵第2連隊長。1944年11月24日の時点で、満46歳です(数えでは四十七)。死後、二階級特進しています。
⚠️撮影された年は、写真そのものには記されていません。階級章から、大佐になる前のものと見られます。
9. 目録と、原画像 🟢 確か
六月綴を読んだとき、JACARの目録の「内容」欄の翻刻と、原画像の字が二か所で違っていました。電報番号(目録「一一五」/原画像「一二五」)と、本文の一語(目録「全將兵指揮ヲ愈々振起シ」/原画像「全將兵志氣ヲ愈々振起シ」)です。番号は同じ文書のなかの三か所(受信原本・返電・転電)でいずれも「一二五」でした。
目録は索引で、正本は画像です。このページが引いている逐語は、すべて原画像から取っています。
⑥ サクラの後——1947年4月22日
物語は、1944年で終わりませんでした。戦争が終わって二年たった1947年(昭和二十二年)、島の洞窟には、まだ人がいました。
元海軍上等水兵の土田喜代一が単独で脱出して外部と接触し、仲間の実家からの返信を、隠れ処の外で読み上げて説得したと伝えられます🟡 諸説。
そして、島に一通の文書が届きます。差出人は、内閣総理大臣・吉田茂。
「ペリリュー島残留軍人に対する総理の勧告文」(1947年4月21日付)。すでに約七百万人が復員したことを伝え、投降を勧めるものです。国立公文書館に原本があり、アジア歴史資料センターの目録に Ref. A14110189100 として載っています🟢 確か。
⚠️ただし、このRefの画像は、制作時点で開けませんでした(404)。目録の記載までは確かめられていますが、紙面そのものは、まだ見ていません。だから、このページには文面を一行も引いていません。Refを書いておくのは、次に確かめる人のためです。
内閣総理大臣が、一つの島の数十人のために、文書を書いた。——この事実だけで、ここで何が続いていたかが分かります。
1947年4月22日、三十四人が洞窟を出ました。のちの戦友会の名前は、「三十四会」といいます🟡 諸説。
出典=JACAR 目録 Ref. A14110189100(国立公文書館所蔵・画像は未取得)。34名投降の経緯=報道および証言アーカイブ系の記述、平塚柾緒『玉砕の島 ペリリュー 生還兵34人の証言』(PHP)による体系的記録。⚠️個々の細部は資料により差があります。
そして、いま
ペリリューでは、これまでに7,799柱の遺骨が収容されています。いまも千柱を超える人が、島のどこかにいるとみられます🟡 諸説。2024年には、集団埋葬地の特定に向けた動きが伝えられました🟡 諸説。「まだ帰れていない」は、過去形ではありません。
2015年(平成二十七年)4月、天皇皇后両陛下がこの島を訪れ、日本とアメリカ、双方の慰霊碑に花を供えました🟢 確か。
日本に、残った側
その人たちが帰った先は、水戸にあります。茨城縣護國神社の境内、案内図の⓬番。「ペリリュー島守備部隊鎮魂碑」という碑が立っています🟢 確か。
建てられたのは、平成五年(一九九三年)十一月二十四日。玉砕から五十年の、同じ日付です🟢 確か。
碑文(末尾)
……五十年祭を期し、有志相図り、この碑を建立する。
平成五年(一九九三)十一月二十四日
歩二会・ペリリュー島慰霊推進会
碑のとなりには、「マヌス島岩上大隊慰霊碑」が並んでいます。こちらも茨城から出て、南の島で消えた部隊です🟢 確か。
そして毎年十一月二十三日、この碑の前で「水戸歩兵第二聯隊並びにペリリュー島守備部隊 戦没者合同慰霊祭」が行われています🟢 確か。
夏には、遺品が人前に出ます。県庁の二階ロビーで開かれる「戦争と茨城」という展示会です。主催は茨城郷土部隊史料保存会で、五十年以上かけて集めてきた資料の一部を並べます。ペリリューで使われた歩兵銃、飯ごう、現地から送られた手紙、洞窟陣地の写真——二〇二四年と二〇二六年の開催が、報道で確かめられます🟡 諸説。
出典=茨城縣護國神社 公式サイト「境内案内」(碑文・建立年月日・建立者・境内位置・祭典日)。展示会=茨城新聞 2026年8月2日付、および 2024年8月1日付(後者は元URLが削除済みのため Internet Archive の保存版で確認)。
⚠️展示会が毎年ペリリューを取り上げているかは、確かめられていません。二〇二六年の記事には「同島の戦いを描いた漫画が映画化され、世間の関心の高まりを受けて、展示会で取り上げた」とあります。展示会そのものは続いていますが、ペリリューが並ぶ年と、並ばない年があるかもしれません。二〇二五年の開催記事は見つけられませんでした。
日付のほうは、残ったんですね。
写真で見る
電報綴の原本画像は、ここには貼っていません(①のとおり、所蔵機関への照会が要ります)。原本の紙のほうは、アジア歴史資料センターで誰でも見ることができます。
ここに並ぶのは、出どころと権利を一点ずつ確かめた写真だけです。撮影された年と、撮った側を、そのつど書いてあります。
水戸——1912年(明治四十五年)
ペリリューへ行った連隊は、水戸から出ています。三十二年前の、同じ連隊の写真が残っています。
島——1944年
ここから下は、すべて上陸した側(米軍)が撮った写真です。日本側から撮られた島の写真は、ほとんど残っていません。島の姿が分かる画だけを選んであります。
いま
⑦ この蔵だけの一行——感状という紙の、型
電報綴の最後のほう(第47〜50画像目)に、歩兵第2連隊への感状が綴じられています。1944年11月29日、総司令官の名で出されたものです。
原文(末尾)
……千古全軍ノ亀鑑ト為スヘシ 仍ッテ茲ニ感状ヲ授与シテ之ヲ全軍ニ布告ス
出典=JACAR Ref. C23110012700(第47〜50画像目)。
ここからが、このページにしか書いていないことです。
このチャンネルは、別の回のために陸軍の特攻隊(振武隊)の感状綴を読んでいます。1945年5月、沖縄方面へ出撃した隊への感状で、こちらもアジア歴史資料センターに原本があります(Ref. C14020169600)。その末尾は、こうです。
原文(末尾/振武隊の感状資料)
……其ノ武功真ニ抜群ニシテ其ノ忠烈ハ全軍ノ亀鑑タリ 仍テ茲ニ感状ヲ授与シ之ヲ全軍ニ布告ス
出典=JACAR Ref. C14020169600(第19画像目・第56振武隊 感状資料)。⚠️墨書の判読を含みます。
「全軍ノ亀鑑」「仍テ茲ニ感状ヲ授与シ、之ヲ全軍ニ布告ス」——ほとんど同じ文です。
島で七十日を戦って終わった連隊と、沖縄の海へ飛んだ十人の隊。場所も、年も、規模も違うのに、書かれた紙は同じ型でできています。差し替えられているのは、名前と、日付と、功績を述べる中ほどの数行だけです。
⚠️これは「軍の言葉」であって、この番組の言葉ではありません。定型であることを、悪いことだとも書きません。ただ、顕彰する紙にも、様式があった——それが分かるのは、二つを並べて見たときだけです。
⑧ むすび
11月22日の朝、七時四十分に起案され、八時一分に発信された電報がありました。受信が八時四十九分、翻訳が終わったのが九時二十分。受付番號は36で、決裁の印が四つ押されています。中身は二行——軍旗を処置した、機密書類を処理した。そして前の紙に、最後の電報は「サクラ」を連送する、と書いてありました。二日後の午後四時、その言葉だけが届きます。受け取った誰かが、二日前の紙の左の余白に、縦に小さく書き足しました。「十一月二十四日 一六〇〇 「サクラ」電受」。打った手にも、書き留めた手にも、名前が残っていません。それでも、紙のほうは残りました。いまは誰でも、画面の上で、その余白を見ることができます。
⑨ このページについて
本作および本ページは、国立公文書館アジア歴史資料センターが公開している原本の画像と、米政府の公刊戦史(保護期間の問題が生じないもの)、刊行された書籍、および公開されている情報にもとづいて制作しています。電報の逐語は、すべて原画像を拡大して一字ずつ読み取ったものだけを載せました——読めなかった箇所は「読めていない」と書き、目録の翻刻をそのまま引くことはしていません。史料のあいだで数字に幅があるものは、幅ごと書いています。戦争を美化する意図も、貶める意図もありません。特定の政治的立場を取りません。表現についてのご意見は歓迎します。
出典
電報の逐語=JACAR(アジア歴史資料センター)Ref. C23110012700「大東亜戦争 電報綴 第14師団 昭和19年11月」(防衛省防衛研究所)/Ref. C24070981300(歩兵第2連隊 戦況報告・11月24日)/Ref. C23110012000(同 電報綴 昭和19年6月)。⚠️防衛研究所提供分の画像そのものの二次利用には所蔵機関への照会が要るため、本ページは文書の内容を引用の形で載せています。
感状の様式の比較=JACAR Ref. C14020169600「感状に関する綴 昭和20.5〜8」(防衛省防衛研究所)第19画像目。
米軍側の記述=Frank O. Hough, The Assault on Peleliu(U.S. Marine Corps, 1950)/Robert Ross Smith, The Approach to the Philippines(U.S. Army, 1953)Ch.XIX/Garand & Strobridge, History of U.S. Marine Corps Operations in World War II Vol.IV(1971)。いずれも米政府の職務著作=パブリックドメイン。全文は HyperWar(ibiblio)で公開されています。
「安易に玉砕することなく」=防衛省防衛研究所ウェブサイト「史料のなかの軍人たち」より https://www.nids.mod.go.jp/military_archives/siryo/siryo_02.html。
受電の文面=伊藤敬人「『サクラ・サクラ』を受電して」(『水戸歩兵第二聯隊史』1988 所載)。⚠️著作権の保護期間中のため、引用は最小限にとどめています。日本側の戦死者数も同書によります。
在庫報告の電文・連隊の沿革=『太平洋戦争連隊戦史』誌面92-98。
自決の記述=常陸大宮市の公式広報(市文書館監修)の表現による。
1947年の34名=報道および証言アーカイブ系の記述、平塚柾緒『玉砕の島 ペリリュー 生還兵34人の証言』(PHP)。総理の勧告文=JACAR 目録 Ref. A14110189100(国立公文書館所蔵・画像は未取得)。
⚠️「一兵といえども過早の出撃は許さぬ」「three days, maybe two」など、一次の出どころを辿れなかった有名な言い回しは、いずれも使っていません。
このチャンネルは、資料の選定・事実の検証・言葉の解釈と最終判断を、すべて人間が行っています。制作の一部(音声合成・画像の様式化・翻訳補助)にAIを使っています。詳しくは制作方針へ。
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この記事の事実は、アジア歴史資料センターが公開している原本、米政府の公刊戦史、制作者の蔵書、および公開されている情報にもとづいています(主な出典は 動画の概要欄 にも)。出典の注記が確かめられなかった記述は、本文中に🟡・⚪️で示しています。
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