一枚の写真と、六十六年
ペリリュー、一九四四年
一九四四年九月、パラオのペリリュー島。機関銃を膝に抱えた一等兵と、煙草をくわえた一等兵。掃討戦のあいまの、短い休みでした。写真は本国へ渡り、説明の紙が付きます。右はダグラス・ライトハート一等兵。左はジェラルド・チャーチビー一等兵。ところが、その左の名前で呼ばれた海兵隊員は、どこにもいませんでした。
このページは、本編で語りきれなかった全体像を、確かめられた事実で辿り直す場所です。どこまで確かなのかを、一つずつ添えました。
① 一枚の写真の話 🟢 確か
一九四四年九月十五日、ペリリュー島にアメリカの海兵隊が上陸した。その戦場で、九月の半ばに一枚の写真が撮られている。掃討戦のあいまの、短い休みだった。
写真は本国へ渡り、説明の紙が付いた。写真はその後、南の島の戦場を伝える一枚として繰り返し使われ、公文書館では複製注文のための番号まで与えられた。ところが、左の名前で呼ばれた海兵隊員は、どこにもいなかった。名簿を探しても、その街を探しても、出てこない。写真だけが有名になり、写っている本人は六十六年のあいだ、誰なのか分からないままだった。
二〇一〇年、オハイオ州アクロンの地元新聞が紙面で呼びかけた。この男性を知りませんか。その年の秋、戦史のデータベースを運営する男性と読者のひとりが、名簿からよく似た別の名前を見つける。ジェラルド・サーズビー。同じアクロンの人だった。亡くなった妻の記事、本人の記事とたどり、家族に行き着く。娘は写真を一目見て、父だと言った。
公文書館は記録に一行を書き添えた。左の海兵隊員はジェラルド・チャーチビーではなく、オハイオ州アクロンのジェラルド・P・サーズビー・シニアであると、暫定的に確認された。
サーズビーは一九九九年に、相棒のライトハートは二〇〇六年に亡くなっている。名前が写真に戻る前のことだった。
② 記録に残る言葉
いずれもアメリカ政府の刊行物および公文書の記載。原文のまま。
この一枚の記録 🟢 確か
アメリカ国立公文書館・NAID 532538/記録番号 127-N-97628
Marine Private First Class Douglas Lightheart (right) cradles a 30-caliber machine gun in his lap, while he and his buddy Private First Class Gerald Churchby take time out for a cigarette, while mopping up the enemy on Peleliu Islands
機関銃を膝に抱えるライトハート一等兵と、相棒のチャーチビー一等兵。ペリリュー島での掃討戦のあいまに、一服している。
同じ記録に書き添えられた注記 🟢 確か
The Marine on the left has been tentatively identified through information received by the National Archives as being Gerald P. Thursby, Sr. of Akron, Ohio, not Gerald Churchby.
左の海兵隊員は、国立公文書館が受け取った情報により、ジェラルド・チャーチビーではなく、オハイオ州アクロンのジェラルド・P・サーズビー・シニアであると、暫定的に確認された。
上陸前の見通し 🟢 確か
『Bloody Beaches: The Marines at Peleliu』
…their commanding general, Major General William H. Rupertus, believed that the operation would be tough, but quick…
師団長のルパータス少将は、この作戦はきついが早く終わると見ていた。
上陸の朝 🟢 確か
『The Assault on Peleliu』
…watchers still aboard the ships off-shore were appalled to discern smoke of another sort: burning amtracks and DUKW's littered across the length and breadth of the reef.
沖の艦上から見ていた者たちは、別種の煙を見て愕然とした。珊瑚礁の端から端まで、燃える上陸用車両が散らばっていた。
その光景を見た将校の言葉 🟢 確か
同書の脚注・一九四九年の聞き取り
I'd never seen combat before, and the first thing that struck me was that this was a hell of a way to treat $40,000 equipment.
実戦を見るのは初めてだった。最初に頭に浮かんだのは、四万ドルの装備をなんという扱い方をするんだ、という思いだった。
島の暑さ 🟢 確か
On the second day, the temperature reached 105° in the shade… (temperatures as high as 115° were noted).
二日目には日陰で華氏百五度に達した。華氏百十五度が記録されたこともある。摂氏でおよそ四十度と四十六度。
水 🟢 確か
…steaming out the oil drums did not remove all the oil, with the result that many or most of the troops drinking water from the drums were sickened.
ドラム缶に蒸気を吹き込んでも油は抜けきらず、その水を飲んだ多くの兵が体を壊した。
日本軍の戦い方 🟢 確か
There had been no banzai charges on D-Day, and there were to be none during the entire operation.
上陸の日にも、作戦を通じても、突撃はなかった。
尾根の名前 🟢 確か
This was the original "Bloody Nose" ridge, so christened by the troops who first came up against it.
これが最初のブラッディノーズの尾根である。最初にぶつかった兵たちが、そう名づけた。
先頭に立った連隊の損耗 🟢 確か
…over-all regimental casualties after the last elements had been relieved came to 56%… Of the nine rifle platoons in the three companies of the 1st Battalion, 74 men--and no original platoon leaders--remained.
最後の部隊が交代するまでの連隊全体の損耗は五十六パーセント。第1大隊の三個中隊、九個小銃小隊で残ったのは七十四人。当初の小隊長はひとりも残っていなかった。
③ 記録の中の、もうひとつのずれ 🟡 記録により異なる
この写真の記録には、名前のほかにもう一箇所、周囲と合わない欄がある。撮影日の欄である。記録の記載は一九四四年七月十四日。上陸は九月十五日だから、二か月前ということになる。
同じ海兵隊の記録群でペリリューのものを調べると、日付のある記録は一九四四年八月の末から十一月に収まっていた。七月の日付は、この一枚だけだった。
| 記録番号 | 撮影日の欄 |
|---|---|
| 127-N-97628(この写真) | 1944年7月 |
| 127-GW-749-97570 | 1944年9月 |
| 127-GW-749-97027 | 1944年9月 |
| 127-GW-742-96674 | 1944年9月 |
| 127-GW-742-96675 | 1944年9月 |
| 127-N-95463 | 1944年9月 |
| 127-R-1804 | 1944年9月 |
| 127-R-1806 | 1944年10月 |
| 127-R-723 | 1944年11月 |
この表は、日付の欄に月まで入っている記録を並べたものです。日付の欄は月の精度で入っていることがあり、日にちまでは読み取らないほうがよいものです。どの日付が正しいのかを、この番組は決めません。並べて置きます。
④ 複製注文の番号 🟢 確か
この写真には、公文書館で複製を注文するときのための番号が与えられている。War and Conflict Number 874。戦争と紛争を伝える写真として選ばれ、番号を振られた一枚だった、ということでもある。名前が違ったまま、番号だけが正確に振られていた。
⑤ 島で起きていたこと 🟢 確か
- 上陸は一九四四年九月十五日。組織的な抵抗が終わったのは十一月の下旬で、二か月あまりかかった
- 島を守っていたのは、およそ六千五百人の連隊。第十五話で扱った中川州男大佐の部隊である
- 島のまわりは浅い珊瑚礁で舟が岸に着けられず、海兵たちは腰まで水につかって上陸した
- アメリカ側の死傷は、ペリリューと周辺の島をあわせて九千六百十五人
- 民間の記者で島に上がった者はごく少数だった。戦場を伝えたのは、こうした写真だった
同じ連隊が、六千五百人とも、三千三百人とも書かれている 🟢 確か
第十五話では、同じ連隊を約三千三百人としている。どちらも記録のとおりで、数えている範囲が違う。
- 三千二百八十三人=上陸前にアメリカ側がまとめた見積表の一行で、連隊に砲兵一個大隊を加えた数。同じ表の総計は一万三百二十人から一万七百人で、公刊の記録は、この見積もりがよく当たっていたと書いている
- 六千五百人=別の公刊が地の文で書いた数で、増強された連隊としての数。原文では Reinforced と付いている
どちらの数字も、何を数えた数かを添えて読むものです。
⑥ 二つの記録が食い違っている夜 🟢 確か
十月、百四十高地への夜の攻防について、両方の側の記録が残っている。日本側の中川大佐の報告。
The enemy penetrated our front lines but were repelled by night attack.
敵は前線を突破したが、夜襲により撃退した。
アメリカ側の記録は、同じ夜について、突破した者はいなかったと書いている。同じ夜のことである。どちらが正しかったのかを、この番組は決めない。紙と紙が食い違ったまま、残っている。
⑦ 写真で見る
いずれもアメリカ政府の刊行物・公文書に由来する記録です。
本編では、記録票のうち名前・注記・日付・番号の四か所を画面に出しています。写真そのものと、写真に付いた紙と、どちらも記録です。
⑧ 諸説と、確かめられなかったこと
左の一等兵の身元 🟡 一つの資料による
公文書館の注記は「暫定的に確認された」と書いている。番組もそこまでにした。断定はしていない。
撮影日 🟡 記録により異なる
記録の欄は一九四四年七月十四日。周囲の記録は八月末から十一月。どちらが正しいかは決めない。
二人の所属 🟡 記録に無い
記録票には部隊が書かれていない。書かれているのは名前と、ペリリュー島という場所だけである。第1海兵師団という説明は後から広まったもので、記録そのものには無い。番組では「ペリリューに上陸した海兵隊員」までにとどめた。
上陸前の見通し 🟡 一つの資料による
「三日で終わる」という具体的な言葉は、回想録の類で伝えられている。公刊の記録に書かれているのは「きついが早く終わる」までである。
島の暑さで倒れた兵の数 ⚪️ 分からない
記録に数字は見つからなかった。「熱で倒れる者が増えた」という記述までである。
この島の、ほかの回
- 第十五話 ペリリューの戦いと、終わりを告げた電報の余白の一行(日本側から)
- 第二十五話 終戦から二年後、島に残っていた三十四人(信じられなかった三枚の紙)
- 第二十八話 この回(アメリカ側の、一枚の写真から)
同じ島を、三つの側から見ています。
出典
- アメリカ国立公文書館の記録=NAID 532538/記録番号 127-N-97628(原題・注記・撮影日欄・複製注文番号)
- Frank O. Hough『The Assault on Peleliu』(U.S. Marine Corps, 1950)
- Gordon D. Gayle『Bloody Beaches: The Marines at Peleliu』(U.S. Marine Corps, 1996)
- 写真=U.S. National Archives/Wikimedia Commons
引用はすべて原文ママです。
この島の一度目の話(第十五話・中川州男) / 二度目の話(第二十五話・三十四人)
🟢=一次資料で確かめたもの/🟡=出典はあるが一つだけのもの、記録により異なるもの/⚪️=出どころが分からないもの