紙は、持ち出せなかった
——山本幡男の九年と、四千五百字の遺書
山本幡男(やまもと・はたお、1908–1954)。島根県の隠岐諸島、西ノ島の生まれです。東京でロシア語を学び、満鉄でソ連の新聞や雑誌を読む仕事に就き、1945年8月の敗戦とともにソ連に抑留されました。戦闘が終わったあとに、九年が始まった人です。
1954年、声を失ったあとに筆談で遺書を書きました。ノート十五ページ、約四千五百字。けれどもこの収容所から、日本語で書かれた紙を持ち出すことはできませんでした。
このページは、動画で語りきれなかったことを、確かめられた事実で辿り直す場所です。
① 生い立ちと、九年——年表
凡例は⑥のとおりです。🟢=複数の資料で確かめられること/🟡=資料により異なる・孫引きであること。
- 🟢 確か 1908年9月10日、島根県知夫郡黒木村(現・隠岐郡西ノ島町)に生まれる。小学校長の父の長男。
⚠️隠岐諸島には「隠岐の島町」という別の自治体があります。山本の生地は西ノ島町です。 - 🟡 諸説 旧制松江中学。成績はよく副級長を務め、運動こそ苦手なものの、文才に加えて画才にも恵まれていた、と伝えられます。
- 🟡 諸説 大学へは進みませんでした。弟や妹が多く、経済的に難しかったためとされます。
- 🟡 諸説 1926年4月、東京外国語学校ロシア語科に入学(18歳)。ロシア文学に心を惹かれ、ロシア革命に共感を抱いたことによる、とされます。
- 🟡 諸説 1928年3月15日。この日、治安維持法による全国一斉の検挙が行われました(三・一五事件)🟢 確か。山本は街頭連絡の途上で逮捕され、卒業を目前に退校処分を受けています(復学せず、卒業していません)。
⚠️この事件の検束・検挙・起訴の人数は、資料によって幅があります(検束数千名/検挙約300名/起訴488名など)。このページでは数字を立てません。 - 🟡 諸説 退校後の八年。父が病死し、福岡県戸畑で叔父の石炭商を手伝いながら、母と四人の妹を養いました。その傍らで仏教の研究にも打ち込んでいた、とされます。
- 🟡 諸説 1933年、隠岐の小学校教師・モジミと結婚。
- 🟡 諸説 1936年、南満洲鉄道(満鉄)入社。ロシア語の実力を買われ、大連の調査部北方調査室、のち新京の調査局第三調査室へ。入社時の成績は「ロシア人の試験官が舌を巻くほど」と伝えられます。
- 🟡 諸説 1944年7月8日、召集(36歳・二等兵)。1945年1月、ハルビンへ。
- 🟢 確か 1945年8月、敗戦とともにソ連に抑留。以後九年、各地の収容所を移されます🟡 諸説(スヴェルドロフスク→1949年ごろハバロフスク第6分所→1950年からハバロフスク第21分所)。
- 🟡 諸説 満鉄調査部での北方調査と、ハルビンでのソ連の新聞・雑誌の翻訳がスパイ行為と見なされ、重労働の刑を受けました(ソ連刑法第58条第6項)。1950年に俘虜の帰国が始まりますが、戦犯とされた者は帰国を許されませんでした。⚠️刑期は資料で食い違います(⑥の5)。
- 🟢 確か 1953年春ごろから喉に異変。翌1954年5月には声が出せなくなり、筆談でしか会話ができなくなりました(長男・山本顕一氏の回想)。
- 🟡 諸説 1953年5月に収容所内の病院へ入院。1954年2月、仲間の請願が認められてハバロフスク市内の中央病院へ転院しますが、手遅れと診断され、翌日には収容所へ戻されました。
- 🟡 諸説 1954年7月1日の深夜から2日にかけて、遺書を書く。ノート十五ページ・約四千五百字。
- 🟢 確か 1954年8月15日の走り書きが残っています。「遺書ハ萬一ノ場合ノコト」——遺書を書いたあとも、この人は帰るつもりでいました。
- 🟢 確か 1954年8月25日午後1時30分、ハバロフスクの収容所第21分所の病室で死去。
- 🟡 諸説 墓は収容所から一キロ余のロシア人墓地。氏名も日付も記すことを許されず、番号「45」を書いた白樺の墓標だけが立てられました(⑥の9)。
② 「見せるための日本語」——『日本しんぶん』と文化部
収容所には、日本語の新聞がありました。『日本しんぶん(日本新聞)』です🟢 確か。1945年9月4日にソ連共産党中央委員会が刊行を承認し、第1号は同年9月15日。ハバロフスクで発行され、週三回配られました。第662号(1949年12月30日)まで続いています。
この新聞はソ連陸海軍政治部の管理下にあり、目的は日本人捕虜の政治思想教育、いわゆる民主運動の教化にありました(広島大学リポジトリ・溝渕園子論文の記述)🟢 確か。収容所の壁新聞は、この新聞を出発点としています。
壁新聞のほうは、恩恵として与えられたものではありませんでした。収容所側が「俘虜たちの操縦の手段として文化部の設置を決定」し、山本はロシア語ができたために、その部長に任命されています🟡 諸説。壁新聞を作り、国際情勢を仲間に伝えました。捕虜を管理するための装置のなかの役職だった、ということです。
演劇も上演されました。ただし脚本は上演のたびにソ連側の検閲を受け、山本がロシア語で交渉して承諾を得ていたとされます🟡 諸説。
文化活動には、見返りの構造もありました。「アクチブ(活動分子)になれば労働・飢餓・寒さから解放され、さらに活躍すれば帰国の順位が優先されるという噂が流れた」と同じ論文は記しています🟡 諸説。
一方で、俳句の会は禁じられていました。「日本人が特定の目的以外で集まることは、ソ連により禁じられていた」ため、句会は秘密裏に開かれています🟡 諸説。
この線引きは、九年のあいだ固定されていたわけでもありません🟡 諸説。1951年ごろにはザラ紙が使えるようになり、句会は文化部の一環となって、俳句が食堂の壁に貼り出されました。ところが1952年8月の脱走事件を機に監視が強化され、収容所内のいかなる趣味サークルも禁止されます。それでも同じ年の秋、風呂場の脱衣所で秘かに句会が開かれたと伝えられます。
⚠️「なぜ壁新聞や演劇は許されたのか」を、ソ連側の公文書のレベルで書いた資料は見つかりませんでした。上に引いた「操縦の手段」が、現時点でいちばん直接的な記述です。
見せるための日本語は、許されていた。……許すか許さないかを決める側が、ずっといたということですね。
③ 葉書に、書けなかったこと
抑留された人と家族をつないだのは、俘虜郵便と呼ばれる葉書でした。国際赤十字・赤新月社を経由した往復葉書です🟢 確か(平和祈念展示資料館)。
1952年4月、「郵便葉書」と呼ばれる専用の往復葉書のやり取りが認められました🟢 確か。山本の葉書が1952年から始まるのは、この制度の変更と時期が重なります。
そして、そこには検閲がありました。
「ソ連の厳しい検閲のため、葉書には収容所の場所や抑留生活の厳しさ、死んだ戦友の話を書くことは許されませんでした」(平和祈念展示資料館)🟢 確か。同館の展示には、検閲で墨を塗られた葉書や、検閲逃れの謎かけが書かれた葉書があります。
支給される葉書の枚数も、ごく僅かでした🟡 諸説。⚠️ただし「一通あたり何語まで」といった具体的な制限や、検閲を実施した部署の名前は、確かめられませんでした。
山本の葉書は片仮名と漢字だけで書かれています(平仮名を使っていません)。そして書き出しは、いつも同じでした🟡 諸説。
先ヅ私ガ元氣ニ暮シテ居ルコトヲオ知ラセシマス。御安心下サイ。
出典=山本幡男の俘虜郵便(1952–54年)。本文は著作権の保護期間が満了しています。逐語は辺見じゅん『収容所(ラーゲリ)から来た遺書』を底本とするウェブ上の書き起こしによります=孫引きのため確度は🟡。
④ 遺書から——三つの引用
遺書が書かれたのは1954年7月1日の深夜から、翌2日にかけて。ノート十五ページ、約四千五百字を一晩で書いています🟡 諸説。宛先は四つに分かれていました——収容所の仲間へ、母へ、妻へ、子どもたちへ。分量は、本文が約700字、母へ約1,000字、妻へ約700字、子どもたちへ約1,100字とされます🟡 諸説。
⚠️このページに、遺書の紙の写真はありません。この回の引用は、現物の画像を用いず、出どころを明示する形で置いています。以下に、遺書から三つの一節を引きます。山本幡男が書いた文章そのものは、著作権の保護期間が満了しています🟢 確か。ただし逐語の出どころは辺見じゅん『収容所(ラーゲリ)から来た遺書』を底本とするウェブ上の書き起こし=孫引きのため、確度は🟡として扱います。
1. 書き出し——「本文」の冒頭 🟡 諸説
山本幡男の遺家族のもの達よ! 到頭ハバロフスクの病院の一隅で遺書を書かねばならなくなった。鉛筆をとるのも涙。どうしてまともにこの書が綴れよう!
出典=山本幡男の遺書「本文」冒頭(1954年7月2日付)。本文=保護期間満了/逐語は上記のとおり孫引き。
2. 子どもたちへ——会えないこと 🟡 諸説
君たちに會へずに死ぬることが一番悲しい。
出典=山本幡男の遺書「子供等へ」。本文=保護期間満了/逐語は孫引き。
父が召集されたとき、長男は十二歳、末の娘は一歳でした。
3. 子どもたちへ——四人へ 🟡 諸説
四人の子供達よ。お互いに團結し、協力せよ!
出典=山本幡男の遺書「子供等へ」。本文=保護期間満了/逐語は孫引き。
子どもたちへの一通は、四通のなかでいちばん長いものです。まとめて書かず、一人ずつ、名前を呼んで書かれています🟡 諸説。
遺書を運んだ人たち
佐藤健雄 瀨崎清 森田市雄 山村昌雄 新見此助 野本貞夫 後藤隆敏 日下齢夫
年譜に名前が残っている人たちです🟡 諸説。担当が判明しているのは、森田市雄が「妻よ!」の章を覚えたこと。
⚠️読み仮名は、資料に記載がなく確かめられませんでした。何人で分担したのか、最後の一通がいつ届いたのかについては資料が食い違います(⑥の1・2)。
八人の名前が、残っている。……覚えて帰る、という仕事をした人たちの名前です。
⑤ 写真で見る
動画の画面には収まらなかった、同じ土地・同じ時代の写真を並べます。出典は各キャプションのとおりです(戦前の写真は保護期間満了、現在の写真は各クリエイティブ・コモンズ表示)。
⑥ もっと深く——諸説あり
凡例:🟢=複数の資料で確かめられること/🟡=資料により異なる・孫引きであること/⚪️=裏付けが取れていないこと。分からないことは、分からないと書きます。
🟢 確か複数の資料で確かめられること 🟡 諸説資料により異なる・孫引きであること ⚪️ 裏付けなし裏付けが取れていないこと
1. 何人で分担して覚えたのか 🟡 諸説
「六人」とする要約、「七人」とする地方紙、そして「七通が届いた」とする詳細な年譜があります。このページでは人数を立てません。
2. 最後の一通が届いたのは、いつか 🟡 諸説
最初の一通が1957年1月中旬に届いたことは複数の資料が一致します(最後の引揚船・興安丸が1956年12月26日に舞鶴へ入港した直後です🟢 確か)。
分かれるのはそのあとです。1957年のうちに届き終えたとする要約に対し、詳細な年譜は1987年に七番目の遺書が届いた=逝去から三十三年目と記します。後者は個人サイトの記述(底本は辺見じゅん『収容所から来た遺書』)で、書籍にあたって裏を取れていません。このページでは、両方あることだけを書きます。
3. 病名が、資料で四通りに分かれます 🟡 諸説
「咽頭悪性肉腫」「咽喉癌性肉腫」「喉頭癌性肉腫」「喉頭癌」——同じ資料のなかでも表記が混在しています。このページで病名を書いていないのは、そのためです。書けるのは「喉の病で、声が出せなくなった」までです。
4. 享年が、同じ資料の中で食い違います 🟡 諸説
「四十四歳」と「四十五歳」が、同一資料の中に混在しています。ここでは生没年(1908–1954)で示すに留めます。
5. 刑期が二通りあります 🟡 諸説
「二十年」とする記述と、「二十五年」とする長男の回想があります。断定しません。
6. 遺書を書くよう勧めたのは、誰か 🟡 諸説
長男・山本顕一氏の回想は、満鉄時代の上司だった佐藤健雄が決断して頼んだとします。一方、年譜は瀨島隆三(団本部初代団長)の提案を受けて佐藤健雄が懇請したとします。このページは両方を併記し、どちらかに立ちません。
なお、頼まれた山本が筆談ノートに「明日」と二文字だけ書いたことは、長男の回想にあります🟢 確か。
7. 戒名を自分で作り、翌日、訂正しています 🟡 諸説
「久遠院智光日慈信士」と自ら戒名を書いた翌日、「久遠院法光日眼信士ト訂正シテクダサイ」と書き直したと伝えられます。
8. 抑留された人と、亡くなった人の数 🟢 確か 🟡 諸説
日本政府(厚生労働省 社会・援護局)の推計は抑留 約57万5千人/死亡 約5万5千人(うち個人が特定されているのは約4万1千人)です🟢 確か。この資料は推計の方法まで書いています——「主に昭和20年代の引揚時の港における抑留帰還者からの聴取により推計」。
一方、ロシアの公文書に基づく研究や、米国の研究者による推計では、これと大きく異なる数字が挙げられています🟡 諸説(いずれも原著にはあたれていません)。数字は資料により大きく異なります。
なお、シベリア特措法(2010年)の条文に数字の記載はありません🟢 確か。書かれているのは「酷寒の地」「劣悪な環境」「過酷な強制労働」という事実の認定です。
9. 墓標の番号「45」 🟡 諸説
墓は収容所から一キロ余のロシア人墓地にあり、氏名も日付も記すことは許されませんでした。立てられたのは、番号だけを書いた白樺の墓標です。同じ収容所にいた瀨崎清が監視兵の目を盗み、その根元に鉛筆で名前と死亡年月日を書き入れたと伝えられます。
⑦ むすび
遺書の紙は、日本に着いていません。着いたのは、覚えて帰った人たちが、日本で書き起こした文です。このページに並べたのは、その言葉のまわりにあったものです——許された日本語(壁新聞)と、禁じられた日本語(句会)と、検閲を通った葉書と、船が着いた桟橋。どれも四千五百字そのものではありません。それでも、この人がどんな場所で、何を書けて、何を書けなかったのかは、ここから辿れます。
⑧ このページについて
本作および本ページは、公的機関の公開情報(厚生労働省の資料、平和祈念展示資料館、舞鶴引揚記念館、法令の条文)、機関リポジトリの論文、およびご遺族による公開の回想に基づいて制作しています。山本幡男本人の文章は著作権の保護期間が満了していますが、その逐語をウェブで読める形にした書き起こしは、いずれも辺見じゅん『収容所(ラーゲリ)から来た遺書』を底本とする孫引きです。このページはそれを🟡として扱い、断定しません。表現についてのご意見は歓迎します。
関連する作品(典拠として)
辺見じゅん『収容所(ラーゲリ)から来た遺書』(文藝春秋・1989/文春文庫・1992)=第11回講談社ノンフィクション賞・第21回大宅壮一ノンフィクション賞/映画『ラーゲリより愛を込めて』(2022・監督 瀬々敬久/配給 東宝)。本作および本ページは、両作の内容に基づくものではありません。書誌として挙げています。
出典
厚生労働省 社会・援護局 主管課長会議資料(令和7年3月)/戦後強制抑留者に係る問題に関する特別措置法(2010年)条文/平和祈念展示資料館(俘虜郵便・検閲の展示解説)/広島大学リポジトリ 溝渕園子「『日本新聞』とロシア・ソビエト文学」/舞鶴引揚記念館(2015年 ユネスコ世界の記憶「舞鶴への生還」)/西ノ島ふるさと館/長男・山本顕一氏による公開の回想/山本幡男 編年譜(個人編纂・底本=辺見じゅん『収容所から来た遺書』)/遺書・俘虜郵便・句会回覧文の逐語=同上(=孫引き・確度🟡)/写真=米陸軍通信隊撮影(パブリックドメイン)、『亜細亜大観』ほか戦前刊行物(保護期間満了)、ウィキメディア・コモンズ各CC表示のとおり。
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