海の前で、止まった
——伊能忠敬・第一次測量の八日間と、上下六人
伊能忠敬(いのう・ただたか、1745–1818)。下総国佐原の商人で、五十一歳で隠居し、十九歳年下の幕府天文方・高橋至時に入門しました。五年学んで、五十六歳で歩き出します。1800年(寛政十二年)閏四月十九日、深川を発って蝦夷地へ向かった第一次測量です。
目的は、地図と、もうひとつ——緯度が一度ぶん変わるまでに、地面を何里歩くか。それが分かれば、三百六十を掛けて地球一周の長さが出ます。歩いた距離と、夜に測った星の高さ。日記に毎日書かれているのは、その二つの数字です。
このページは、動画で語りきれなかったことを、確かめられた事実で辿り直す場所です。
① 五十一で辞めて、五十六で歩き出すまで——年表
凡例は④のとおりです。🟢=複数の資料で確かめられること/🟡=資料により異なる・孫引きであること。
- 🟢 確か 1745年(延享二年)、生まれる。のち下総国佐原(現・千葉県香取市)で造り酒屋を継ぎ、商人として暮らした。
- 🟢 確か 1763年(宝暦十三年)九月、幕府の暦に載っていない日食が起きる。何人かのアマチュアが、四分以上の部分日食を予報していた。翌年の『明和四年暦』には、これに関する言い訳が載せられている。
⚠️この「四分」は食分=食の深さです。後に出てくる「七分」(時刻)とは別のものです(④の4)。 - 🟡 諸説 1792年(寛政四年)、ラクスマンが根室に来航。以後、幕府は蝦夷地の直轄化を進め、箱館奉行を置き、近藤重蔵に択捉島を視察させた🟢 確か。
- 🟢 確か 1795年(寛政七年)、高橋至時が大坂から江戸へ。三月に出府を命じられ、四月に測量御用手伝、十一月に天文方へ抜擢、翌年に改暦御用。改暦をやれる人間が、幕府の天文方にはいなかったためである。
同じ年、忠敬は五十一歳で隠居を許され、至時に入門している🟢 確か。忠敬が江戸に出たのは同年五月とされ、二人の出府と時期が重なる🟡 諸説(④の2)。 - 🟢 確か 1797年(寛政九年)、改暦が宣下される。翌1798年(寛政十年)から寛政暦が使われはじめた。
- 🟡 諸説 1798年(寛政十年)七月、近藤重蔵が択捉島に「大日本恵登呂府」の木柱を建てる。
- 🟢 確か 1798年11月23日(寛政十年十月十六日)、部分月食。実測は寛政暦の予測より時刻にして七分ほど遅れた。至時は同年十一月二日付の書状に「時刻は推歩余程の後れ〜半刻計の遅れ」と書き、「後編月離も未尽さる」——寛政暦の精度も不十分である、と記している。
- 🟡 諸説 1799年(寛政十一年)、東蝦夷地の仮上知(幕府直轄化)が断行される。
- 🟢 確か 1800年(寛政十二年)閏四月十九日、深川を出立。上下六人、朝から小雨。浅草の天文台に寄って、高橋先生に酒をもらっている(②)。
- 🟢 確か 五月六日、三ノ戸宿。この日の記事に「山邊源兵衛と歸府の節の止宿を約す」とある(⑤)。
- 🟢 確か 五月十一日、「此日東風ヤマセ風と云 ニ而渡海ならず」。以後、三厩で足止めが続く🟡 諸説。渡れたのは五月十九日、津軽藩の御用船。着いたのは、めざしていた箱館ではなく吉岡(現・北海道福島町)だった。
- 🟢 確か 十月廿一日、江戸着。閏四月十九日に小雨のなかを六人で出た旅が、ここで閉じる。
⚠️このページでは日数を数えていません。原文に書かれていないためです(④の12)。 - 🟢 確か 1800年から1816年(文化十三年)にかけ、足かけ十七年・計十次にわたって測量隊を統率し、全国測量を実施した。
- 🟡 諸説 1804年(文化元年)、至時が没する。長男の高橋景保が二十歳で天文方を継ぎ、忠敬の測量を監督して、全面的に援助した。
- 🟢 確か 1818年(文政元年)、忠敬が没する。『大日本沿海輿地全図』が幕府に差し出されたのは文政四年(1821)——没後三年目である。
- 🟡 諸説 1828年(文政十一年)、景保は禁制品である伊能図を来日した外国人に渡したことが露顕して逮捕され、翌年三月に獄死した。
② 三厩の、八日間
一行は奥州街道を北へ進みます。日記によれば、五月九日には青森を発って蓬田へ。本州の北の端・三厩に着いたのは五月十日とされます🟡 諸説。ここから船で津軽海峡を渡る予定でした。日記の五月十一日の条は、こうです。
此日東風ヤマセ風と云 ニ而渡海ならず
出典=『蝦夷于役志』寛政十二年五月十一日の条。青森県立図書館 編『青森県立図書館叢書』第4編(青森県立図書館・昭和8年)所収「伊能忠敬測量日記抄」=国立国会図書館デジタルコレクション(インターネット公開・保護期間満了)。翻字は画像からの目視によります。
東から吹く風を、この地では「ヤマセ風」と言う。土地の言葉が、そのまま書き留められています。
そして、翌日も、その翌日も、同じことが書かれます。三厩に着いてから渡海するまでを、行程表から並べます🟡 諸説。
| 五月 | その日の記事(原文ママ) |
|---|---|
| 十日 | 三厩 着(宿=工藤忠兵衛) |
| 十一日 | 東風(ヤマセ風)にて渡海ならず |
| 十二日 | 東風にて渡海ならず逗留 |
| 十三日 | 東風にて渡海ならず逗留 |
| 十四日 | 無風にて渡海ならず逗留 |
| 十五日 | 東風にて渡海ならず逗留 |
| 十六日 | 東風にて渡海ならず逗留 |
| 十七日 | 渡海の所風止み又三厩へ帰る |
| 十八日 | 東風にて渡海ならず逗留 |
| 十九日 | 津軽候の御船にて渡海 |
出典=伊能忠敬研究会の運営するサイトに掲載された第一次測量の行程表。⚠️国立国会図書館で読める『測量日記抄』は「抄」=抜粋で、こちらからは十二日以降の条を確かめられていません。この表の確度は🟡として扱います。
十四日は、無風で渡れていません。
無風にて渡海ならず逗留
出典=同上(行程表・確度🟡)。
十七日には、いちど船を出しています。そして——
渡海の所風止み又三厩へ帰る
出典=同上(行程表・確度🟡)。
出たけれど、風が止んで、また三厩へ帰ってきた。風が吹いても渡れない。風が止んでも渡れない。歩いて地球の大きさを測ろうとした人が、海の前で止まりました。
渡れなかった日も、ちゃんと書いてあるんですね。……進めた日だけ書いていたら、八日間は無かったことになるのに。
渡れたのは五月十九日、津軽藩の御用船でした。ただし、着いた場所は行くつもりだったところではありません。めざしていたのは箱館。風の影響で、船は吉岡(現・北海道福島町)に運ばれました🟢 確か。一行はそこから箱館まで船で行こうとして、翌日の朝十時ごろまで風向きが変わるのを待ち、変わらないので、陸路を測量しながら進むことにしています。蝦夷地の測量は、行くつもりのなかった場所から始まりました。
⚠️忠敬が長男に宛てた手紙に、上陸地は「吉岡と申す川岸」と記されている、と同じ資料は書いています。ただし書状そのものにはあたれておらず、孫引きのため確度は🟡です。
③ 「上下六人」——名前が、全部書いてある
出発の日の条を、もう少し長く引きます。
○閏四月十九日、朝五ツ前深川出立、上下六人、伊能勘解由、門倉隼太、平山宗平、伊能秀藏、夫より下人佐原吉助、新に名か〔?〕へ候長助なり、此日朝より小雨、晝後に止、深川八幡宮参詣、荷物は深川より直に千住宿へ積送……両國通り淺草司天臺へ立寄、高橋先生に而御酒を給
出典=『蝦夷于役志』寛政十二年閏四月十九日の条(前掲・国立国会図書館デジタルコレクション/保護期間満了)。「……」は中略。〔 〕内は判読不能または編者の注で、忠敬の文ではありません。翻字は画像からの目視によります。
深川を出た、六人
上伊能勘解由 門倉隼太 平山宗平 伊能秀藏
下佐原吉助 長助
「上下」は身分の上と下です。上が四人——うち伊能勘解由は、忠敬本人の通称。そして原文が「夫より下人」と線を引いた先に、二人🟡 諸説。あわせて六人。
⚠️読み仮名は、資料に記載がなく確かめられませんでした。「上下◯人」という語法そのものの辞書的な裏づけも取れていません(原文の構造からの読みです)。長助の箇所「新に名か〔?〕へ候長助なり」は、画像から一〜二字を判読しきれていません。
そして、この六人が、そのまま海を渡っています。福島町教育委員会の記述は「伊能忠敬測量隊6人を乗せた船が吉岡川に到着しました」です🟢 確か。
日記には、出発の日に酒肴を贈り、千住宿で別れの膳をともにした人の名前も並んでいます——小網町伊勢屋三米三郎、支配人鯉屋庄兵衞、堺屋源八、神田時計師彌五郎、彌三郎、天満屋八右衛門、綿屋富右衛門、佐原柏屋幸右衛門……。研究によれば、十七年の日記に、作業や宿泊に関わった協力者として記録されている人名は一万二千名にのぼります🟢 確か。名前を残す側の人でした。
一杯もらってから、出たんですね。……五年、教わった人のところに。
④ もっと深く——諸説あり
凡例:🟢=複数の資料で確かめられること/🟡=資料により異なる・孫引きであること/⚪️=裏付けが取れていないこと。分からないことは、分からないと書きます。
🟢 確か複数の資料で確かめられること 🟡 諸説資料により異なる・孫引きであること ⚪️ 裏付けなし裏付けが取れていないこと
1. 隠居した年齢が、五十と五十一に分かれます 🟡 諸説
文化庁の指定解説は「寛政7年(1795)51歳にて隠居」。一方、別の資料は「50歳の忠敬に対し、師匠の至時は31歳」と書きます。数え年と満年齢の違いとみられますが、このページは文化庁の書き方に揃え、どちらが正しいとは決めません。歳の差(十九)は、どちらの資料でも同じです。
2. 弟子入りのきっかけに、説が二つあります 🟡 諸説
説A(知的な動機)=昔の中国の暦『授時暦』が実際の天文現象と合わないことに気づいた忠敬が、その理由を江戸の学者たちに質問したが誰も答えられず、唯一回答できたのが至時だった。そして至時に必死に懇願して入門を認めさせた——と伝えられます。
説B(情報を掴んでいた)=改暦の動きは秘密裏に行われていたが、忠敬の三人目の妻・ノブの父である桑原隆朝が、改暦を推し進めていた幕臣・堀田正敦と強いつながりを持っていた。だから忠敬は、二人が江戸に来ることを事前に知っていたとも考えられている——という説です。
この二つは矛盾しません(知的関心があり、かつ情報を掴んでいた、でも成り立ちます)。⚠️どちらも「伝えられている」「考えられている」=断定されていません。
3. 「深川と暦局のあいだでは、近すぎる」と言ったのは誰か ⚪️ 裏付けなし
忠敬がまず江戸のなかで試した——深川の自宅と浅草の暦局のあいだ(緯度差にして一分半)を歩測した——という話と、それに対する師の返事は、伊能忠敬研究会の運営するサイトの記述が唯一の出どころです。しかもそのサイト自身が「歩測して……提出したらしい」「……というようなことを述べたのであろう」と推量形で書いています。公的機関の資料では取れませんでした。
このページは、推量であることごと置きます。断定に直しません。
⚠️参考までに、いまの測り方でいえば緯度一分はおよそ1.85キロで、一分半なら約2.8キロ。歩ける距離です。忠敬が知っていた値ではありません。
4. この回には「分」が三つあります 🟢 確か
①時刻の分(予測より七分遅れた・ふん)/②角度の分(緯度一分半・ふん)/③食分(食の深さ・四分以上の日食・ぶ)。混ぜると意味が変わります。
なお、当時の言い方は「半刻」でした。至時の書状は「半刻計の遅れ」で、国立天文台がそれを「七分ほど」と換算しています。
5. 「七分」は、大きいずれだったのか 🟢 確か
国立天文台は、この観測から「寛政暦の月の位置精度は時間にして10分弱、角度にして0.1°弱程度と推定できます」としています。七分は、この暦の実力の範囲内でした。同じ資料は「それまでの暦に比べればずっと精密な予測ではあるものの」とも書いています。暦は、壊れていません。
実測値の表も残っています。
| 実測 | 寛政暦 | 現代値 | |
|---|---|---|---|
| 初虧 | 20時31分12秒 | 20時21分33秒 | 20時29分51秒 |
| 食甚 | 21時56分53秒 | 21時50分41秒 | 21時57分26秒 |
| 復円 | 23時22分25秒 | 23時19分41秒 | 23時25分06秒 |
出典=国立天文台 暦計算室(寛政十年十月十六日=1798年11月23日の部分月食)。
それでも、この暦を作った当人が、満足しませんでした。
6. 1798年の月食を、民間の天文家が当てていたかは分かりません ⚪️ 裏付けなし
1798年の月食について、民間・在野の予報に触れた記述は見つかりませんでした。取れているのは1763年の日食のほうです——「一方で、地方の暦算家たちが四分以上の食を予測していました」🟢 確か。三十五年前の話です。1798年も同じだった、とは言えません。
7. 精度の数字は、使っていません ⚪️ 裏付けなし
伊能図の精度について、いくつかの数字が流通しています。しかし国土地理院の資料にも、研究論文にも、文化庁の解説にも、数値の記載がありません。出所をたどると、出典を明記しないサイトやブログに行き着きます。このページでは数字を出しません。「驚くべき精度」といった形容もしません(裏づけのない形容は、数字を出すのと同じことです)。
8. 「地球の大きさを測りたかった」の主語が、資料でずれます 🟢 確か
国土地理院の資料は、こう書いています——「忠敬の師匠の高橋至時は、地図作りをしながら同時に各地の緯度を調べ、緯度1度の距離を算定しようと考え、蝦夷地までの測量と地図作りを幕府に願い出ました。その担当者として推薦したのが弟子の忠敬で」。
つまり願い出たのは師で、忠敬はその担当者として推薦されたという構図です。同じ国土地理院でも、子ども向けのページには「地球の正しい大きさを知るために……測量に出かけました」ともあり🟡 諸説、言い方が揺れます。このページは、精度の高いほうの書き方に従っています。
同じ資料には、幕府側の事情も並べて書かれています——「おりしも、蝦夷地近海にロシア船がたびたび来航するようになり、幕府は国防のために正確な地図が必要と考えていました」。「おりしも」=二つの動機が、因果ではなく並んで置かれているということです。
9. 日記は、二系統あります 🟢 確か
「伊能忠敬の日記は,現地で毎日綴った『伊能忠敬先生日記』51冊と,これをもとに後に清書した『測量日記』28冊の2種が残る」(鈴木純子・2020)。世に知られ、読まれてきたのは清書のほうです。歩きながら書かれた紙は、別の名前で、別に残っています。
10. 「測量日記」という表題が、いつ付いたのかは確かめられませんでした ⚪️ 裏付けなし
「昭和二十七年の装丁修理のときに付けられた」という説があります。もし本当なら強い一行になりますが、文化庁のデータベース、香取市の目録PDF、研究論文(19ページを本文まで確認)のいずれにも記述がなく、逐語が見つかったのは出典表示のない私設サイト一件だけでした。書きません。
11. 日記の紙面は、公開されている範囲にありませんでした 🟢 確か
伊能忠敬記念館が無料で提供している画像二十六点に、『測量日記』は含まれていません(一覧ページと個別ページを全件あたって確認)。国立国会図書館・国立公文書館・大学リポジトリ・ColBase にも、紙面の画像は見つかりませんでした。
このページと動画で日記の逐語を引けたのは、1933年(昭和8年)に青森県立図書館が活字にした『伊能忠敬測量日記抄』があったからです。⚠️これは「抄」=抜粋で、日記の全体が活字になっているわけではありません。
12. 日数は、数えていません 🟢 確か
閏四月十九日に出て、十月廿一日に帰り着いた。それが原文に書いてあることのすべてです。同じ本の第二次測量の末尾には「黒江町ゟ歸る、出立日より二百四十二日」と、本人が日数を数えた行があります。けれど第一次には、この版に日数の記載が見当たりません。だから、こちらでも数えません——それは算術であって、日記の言葉ではないからです。
13. 北斎が描いた天文台 🟡 諸説
葛飾北斎『富嶽百景』の「鳥越の不二」には、浅草の天文台が描かれています。忠敬が出発の日に寄った場所です。ただしそこに描かれた渾天儀は、北斎の想像による構成である可能性が指摘されています(Henry D. Smith II)。絵師が描いた天文台であって、観測の実写ではありません。⚠️『富嶽三十六景』ではなく『富嶽百景』です。
⑤ まだ、実物がある——棚から
忠敬が残したものは、国宝「伊能忠敬関係資料」2,345点として、いまも千葉県香取市にあります(地図・絵図類787/文書・記録類569/書状類398/典籍類528/器具類63)。ここに並べるのは、動画の画面には収まらなかった図と器具、それに同じ土地の現在の写真です。出典は各キャプションのとおりです。
⑥ 最後に、ひとつ
旅の六日目、五月六日。一行は三ノ戸宿(現・青森県三戸町)に泊まっています。その日の記事の途中に、一行だけ、こう書いてあります。
山邊源兵衛と歸府の節の止宿を約す
出典=『蝦夷于役志』寛政十二年五月六日の条(前掲・国立国会図書館デジタルコレクション/保護期間満了)。翻字は画像からの目視によります。
帰るときも、ここに泊まる——行きの道で、帰りの宿を約束しています。蝦夷地へ向かう途中の五十六歳が、帰ってくる前提で歩いていたということです。
日記は「十月廿一日江戸着」で閉じます。その手前、九月廿七日の条に、こう書いてあります。
三ノ戸ニ九ツ着、山邊源兵ヱ方止宿、夜も風雨、雲中測
出典=『蝦夷于役志』寛政十二年九月廿七日の条(前掲・国立国会図書館デジタルコレクション/保護期間満了)。翻字は画像からの目視によります。名は行きの条が「源兵衛」、帰りの条が「源兵ヱ」です。日付は、条の見出しが「申九月廿二日」で、以後は「仝廿七日」のように月を省いて続きます。月が変わるところ(十月廿一日)だけ、月が書かれています。
四か月あまりあとの、同じ家です。その夜も風雨で、それでも雲の合間に星を測っています。
どちらの一行も、本文より小さい字で二列に割って書かれています。低い解像度では字の塊にしか見えず、名前も日付も、列の切れ目で落ちます。
⚠️この二行は、国立国会図書館の画像を原寸で当て直して読みました。
⑦ むすび
日記に書いてあるのは、その日の天気と、泊まった宿と、歩いた距離と、夜に測った星の高さです。歩いた距離と、星の高さ——地球の大きさを出すのに要る二つの数字が、そのまま毎日の記録になっている。だから、進めなかった日も、同じ調子で書かれます。東風で渡れず、無風でも渡れず、いちど出て引き返した日まで、同じ乾いた言葉で並んでいる。そのあいだに、六人の名前と、宿の主人との約束が挟まっています。歩いて測るという仕事は、こういう紙の残り方をしました。第一次測量で歩いた道は、寛政十二年測量小図の線になります。その線の下に、渡れなかった八日間があります。
⑧ このページについて
本作および本ページは、公的機関の公開情報(文化庁のデータベース、国土地理院、国立天文台 暦計算室、国立国会図書館、国立公文書館、香取市/伊能忠敬記念館、福島町教育委員会の刊行物)と、学術雑誌に載った研究に基づいて制作しています。忠敬本人の文章は著作権の保護期間が満了しています🟢 確か。逐語は、保護期間の満了した1933年刊の翻刻(『伊能忠敬測量日記抄』)の画像から、当方が目視で翻字したものです。⚠️『測量日記』そのものの紙面画像は、公開されている範囲では見つかりませんでした。この回の引用に紙の写真が付いていないのは、そのためです。表現についてのご意見は歓迎します。
出典
文化庁 国指定文化財等データベース/文化遺産オンライン 国宝「伊能忠敬関係資料」/国土地理院『"伊能図" 近代地図の原点 〜大日本沿海輿地全図完成二百年記念〜』・「測量・地図ミニ人物伝:高橋至時」/国立天文台 暦計算室 暦Wiki(高橋至時と寛政暦/寛政暦の精度)・同 展示/国立国会図書館「日本の暦」/国立公文書館 デジタル展示『激動幕末』/鈴木純子「伊能忠敬の測量事業にともなった学術的交流」『地学雑誌』129巻2号(2020)/福島町教育委員会 刊『北海道ふくしま歴史物語』所収 中塚徹朗「日本地図の第一歩は吉岡から」/伊能忠敬研究会の運営するサイト(第一次測量の行程表・歩測の経緯=🟡)/日本語版ウィキペディア「伊能忠敬」「高橋景保」「近藤重蔵」「伊能図」ほか(🟡・「要出典」の注記が付いていないことを確認したうえで採録)。
逐語=青森県立図書館 編『青森県立図書館叢書』第4編, 青森県立図書館, 昭8. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1174042(参照 2026-07-28)。
画像=千葉県香取市 伊能忠敬記念館 所蔵(国宝「伊能忠敬関係資料」)/千葉県香取市 伊能忠敬記念館 提供(記念館の外観)/測地原稿図(東京大学附属図書館所蔵)/ウィキメディア・コモンズ各クリエイティブ・コモンズ表示のとおり。
このチャンネルは、資料の選定・事実の検証・言葉の解釈と最終判断を、すべて人間が行っています。制作の一部(音声合成・画像の様式化・翻訳補助)にAIを使っています。詳しくは制作方針へ。
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