蔵 ・ 紙片の日本史 #030 ・ より詳しく

名前を三つ持った男
佐藤正、一九四四から一九四七

この回で追ったのは、佐藤正という一人の諜報員です。本名と、偽名と、記号。三つの名前を持って戦争を過ごし、帰ってきたとき、そのどれでも自分を証明できませんでした。

このページは、本編で語りきれなかった全体像を、確かめられた事実で辿り直す場所です。どこまで確かなのかを、一つずつ添えました。

① 学校の始まり 🟢 確か

映像で見せた表は、この学校が始まったころの、教育の予定を書いた紙です。国立公文書館アジア歴史資料センターで公開されている「後方勤務要員養成所乙種長期第一期学生教育終了の件」(Ref. C01004653900・防衛省防衛研究所所蔵)に綴じられています。紙の右上には「軍事極秘」と刷ってあります。

この綴りの冒頭には、学校の始まりがこう書かれています。

本敎育ハ昭和十四年四月十一日防諜研究所新設ニ關スル命令ニ基キ應急的施設トシテ在九段下愛國婦人會本部附屬建物一棟ヲ借受ケテ諸準備ヲ進メタルカ同年七月十七日第一期學生十九名入所シタルヲ以テ取敢ス同所ニ於テ敎育ヲ開始セリ

読み下すと、こうなります。この教育は昭和十四年四月十一日の命令にもとづき、応急の施設として、九段下にあった愛国婦人会本部の付属建物を一棟借り受けて準備を進めた。同年七月十七日に第一期学生十九名が入所したので、とりあえずその場所で教育を始めた。

借りものの建物で、十九人から始まっています。「応急的施設として」「取り敢えず」と、役所が自分で書いていることに、この学校の出発点があらわれています。

学校が始まった年は、紙によって違います 🟡 記録により異なる

証言集の序章は、こう書いています。前身は昭和十三年、一九三八年一月に出された勅令「後方勤務要員養成所令」にもとづいて設置された。当初は「防諜研究所」の名称が有力だった。同年七月に、東京の九段牛ヶ淵にあった愛国婦人会本部の宿舎を借り受けて開所した。看板は「陸軍省分室」と掲げられた。このとき入所した学生は十九名で、一名が中途退学した。

同じ序章は、その後をこう続けます。昭和十三年七月に後方勤務要員養成所が開校しているが、翌年の四月に同所は中野区に移転した。そして昭和十五年八月に「陸軍中野学校令」が制定されて、官制の上で初めて「陸軍中野学校」として認知された。

一方、いま引いた公文書は、昭和十四年四月十一日の命令にもとづいて九段下の愛国婦人会本部の建物を借り受けて準備を進め、同年七月十七日に第一期学生十九名が入所した、と記しています。

二つの紙は、九段の愛国婦人会本部という場所も、十九名という学生の数も、七月という月も、同じことを書いています。違うのは年です。そして、昭和十四年の四月について、証言集は中野区への移転を、公文書は九段下での準備開始を書いています。同じ月に、逆を向いています。

どちらが正しいかは、この二つの紙からは決められません。この番組はどちらか一方を採らず、両方を並べておきます。

紙目:いつ始まったのかも、はっきりしないんですね。名前を消すことを教える学校の、いちばん最初から。

そして、この学校には名前が三つあります。命令に書かれた「防諜研究所」。この綴りの表題にある「後方勤務要員養成所」。そして翌年の経費の書類に出てくる「陸軍中野学校」(Ref. C01004808500)。三つとも、同じ資料群のなかに紙で残っています。名前を消すことを教えた学校が、自分の名前を三度替えていました。

② 教育予定実施表 🟢 確か

本編で読み上げた科目は、この表からの抜粋です。表には教官の名前と、科目ごとの時間数まで並んでいます。

学科には、戦争学、外国事情(英・米・独・仏伊・蘇)、兵要地誌(蘇・支那・南洋・蒙古)、外国兵器、外国築城、情報勤務、そして謀略勤務、宣伝勤務、防諜勤務、国体学、経済謀略、経済政策、思想及社会問題が並びます。外国語学は蘇語・英語・支那語。術科には剣術、柔術、防諜補助手段、防諜技術、写真技術、そして服務。

服務の教官の欄には、所長である秋草俊の名前が入っています。所長自身が教壇に立っていたことになります。

なお、この表は昭和十三年度の第一期生のものです。佐藤が入校したのは昭和十九年一月で、六年の開きがあります。この表は「佐藤が習った科目」ではなく、「この学校が始まったとき、何を教えると紙に書いたか」として見てください。

③ 残った一冊 🟢 確か

本編で一節だけ見せた教材は、破壊と殺傷に関する教程です。焼却を免れて残った一冊が伝わっています。

第一編の一般通則には、こう書かれています。

諜報工作と破・殺工作は、ともに隠密を条件とす。

この一文は原文のままです。本編では声に出さず、画だけで見せました。手口を書いた各論はこの回では扱いません。公開の場で手順を伝えることに意味がないからです。

一般通則には、諜報とは何か、隠密とは何かという議論が続きます。技術の話より前に、まず「気づかれないこと」を繰り返し説いている構成になっています。

④ コードネーム 🟡 証言による

佐藤に与えられた記号はA3でした。使ってよいのは緊急時だけ、と決められていたことが証言に残っています。

本編では、憲兵分所での身分照会がその「緊急時」になりました。中国服を着てロシア人と接触し、その場で手帳にメモを取ったところを日本の憲兵に見られ、連行されています。所持品から出てきたのは満鉄職員・伊藤正の名刺と、小型の拳銃でした。

自国の憲兵に、自国の諜報員が捕まる。正体を明かせば解放されるのに、明かさないことが仕事の掟である。この構図は、諜報という仕事の性質そのものです。

右足のふくらはぎに残った十五センチの傷は、取材の時点でも残っていました。取材は平成二十二年四月、旭川で行われています。当時、佐藤は八十八歳でした。

⑤ 戸籍 🟡 証言による

帰国したのは昭和二十一年十月、コロ島からの引き揚げです。伊藤正という他人の名前のままで帰っています。

本人の戸籍が消えていた経緯は、証言に語られていません。いつ消えたのか、誰が消したのか、そもそも軍の措置だったのかどうかも、わかりません。わかっているのは、結婚しようとしたときに戸籍が無かったという事実だけです。

札幌にいた奉天時代の同期生に保証人になってもらい、新しい戸籍を作りました。生まれた年も少し変えています。結婚式は婚約者の郷里である秩父で挙げましたが、戸籍の上では北海道が本籍になりました。取り戻した名前は、もとの名前と少し違うものになっています。

当時の戸籍がどう作られ、どう直されるものだったかは、法律の解説書に残っています。国立国会図書館デジタルコレクションで公開されている『改正戸籍法要義』(戸籍学会・大正三年)には、「死亡及ヒ失踪」の節と「戸籍ノ訂正」の章があります。佐藤が生まれた大正十一年ごろの戸籍は、この本が解説している法律のもとで作られたものです。

⑥ 語られなかった名前 🟡 証言による

退職後、佐藤は中国の東北地方を十六回訪ねています。日本に留学したい中国の青年の身元保証人を引き受け続けました。

理由を問われて答えたのは、命を救われた中国人がいる、という一言だけでした。いつ、どこで、何があったのか。相手が誰なのか。それは語られていません。

コードネームのことも、憲兵のことも、戸籍のことも話した人が、最後にひとつだけ守った名前があります。

紙目:名前を消す仕事をしていた人が、最後まで消さずに持っていたのが、他人の名前だった、ということですね。

⑦ 写真で見る

⑧ 別班について

本編の入口で触れた「別班」は、陸上自衛隊の情報部隊とされるものです。政府はその存在を否定しています。この番組は、その真偽を判定する立場にありません。

言えるのは、中野学校が実在したこと、そこを出た人が実際に諜報員として働いたこと、そしてその一人が戸籍を失って帰ってきたことです。ドラマの向こう側にある実際の紙と証言を、この回では追いました。

この学校の、ほかの回

陸軍中野学校(#026)では、この学校が学生を選ぶときに何を紙に書いていたかを追いました。用語は防諜にまとめてあります。戸籍のほうは戸籍の訂正に、当時の条文を置きました。

出典

確度について。学校の設立と科目に関する記述は、公文書の原本にあたって確認しています。佐藤正の経歴と証言は、上記の証言集にもとづくもので、本人が八十八歳のときに語った記憶です。戸籍が消えた経緯のように、本人にもわからないことは、わからないまま書いています。

本編を見る(紙片の日本史 #030)