最後の頁まで、書いてある
——ウォッチェ島で書き継がれた、佐藤冨五郎の二冊の手帳
太平洋のまんなか、マーシャル諸島のウォッチェ環礁で、一人の日本兵が手帳を書き継ぎました。名前は佐藤冨五郎。東京でバスの運転手をしていた人です。
手帳は二冊。あわせて百六十八ページ。飢えていく島で書かれたその頁には、けれど、飢えの記録よりも先に暮らしの記録が並んでいます。
このページは、動画で語りきれなかったその中身を、確かめられた事実で辿り直す場所です。
① 二冊の手帳——手のひらの大きさ
物理から始めます。遺書のある手帳は縦12センチ×横7センチ、112ページ。日記のノートは15センチ×10.5センチ、56ページ。あわせて168ページに、薄い鉛筆の小さな字で、漢字カタカナ交じりの文がびっしりと書かれています🟢(仁平義明論文 p.272の実測記載)。
縦12センチは、手のひらに収まる大きさです。胸のポケットに入る手帳に、二年の島の暮らしと、家族への言葉が収められました。
現存する日記の記述は昭和19年(1944)8月1日から昭和20年(1945)4月25日まで🟢(仁平論文 p.271)。そして書き出しの時点で、すでに「本年一月三十日より……減食」とあります。つまりこの日記に、飢える前の日々は書かれていません。最初の頁から最後の頁まで、飢えの中の日記です。
② バスの運転手だった
佐藤冨五郎は東京で市バスの運転手をしていました。妻のシズエさんと、四人の子ども——孝子、信子、勉、そしていちばん下の赤ん坊🟢(子の実名は遺書の逐語=仁平論文 p.275)。
昭和18年(1943)4月28日に応召し、横須賀の海兵団へ。7月に横須賀を発ち、船を乗り継いで8月1日、ウォッチェ環礁に入港しました🟢(本人の日記「昨年の今日ウオッチェ入港」)。水兵長として召集され、記録に残る最終階級は一等兵曹です(戦死による特進の可能性も指摘されています)。島の暮らしは、ここから一年九ヶ月になります。
③ 素通りされた島
昭和19年(1944)2月、アメリカ軍はマーシャル諸島に来ました。攻め落とされたのは、となりのクェゼリン環礁。ウォッチェには、上陸してきませんでした。攻めずに、通り過ぎた——戦史でいう「飛び石作戦」です🟢。
上陸してこないかわりに、船も来なくなりました。このとき島には三千人あまりの守備隊がいて🟢(ニミッツ『太平洋海戦史』の記載=1944年1月時点3,324名)、その全員への補給が絶たれます。日記には、こうあります。
交通ヲ断レシヨリ 早ヤ三ヶ月
米も、薬も、家族からの手紙も届かない島は、戦闘のないまま、静かに飢えていきました。生きて島を出られたのは三人に一人ほど——多くが、飢えで亡くなったとされます(数字は資料により大きく異なります→⑩の1)。
④ 飢えの中の、日常
この日記を開いて驚くのは、そこに並ぶのが暮らしの工夫であることです。日付を追って、いくつか(すべて昭和19年・仁平論文掲載の逐語)🟢。
- 8月7日 「パパイヤの葉で煙草を製作して吸ふ」
- 8月9日 「マクワ瓜の種を黒澤上水より貰ひ、下肥等も施し」——もらった種をまき、肥料をやる。同じ日、目を悪くして「若狭兵曹のロート目薬をさしたら大分良くなりたり」
- 8月15日 「十五日目(ビスケ)二枚位の配給有り。椰子の配給一ケ有りたり」——十五日に一度、ビスケット二枚ほど
- 9月16日 「暫く振りにドラム缶入浴に。気持ちが良いものだ」
- 10月1日 農園を再開墾。「二百坪を開根して、コーリャンを植付」
- 10月3日 カボチャの種二十四粒を「早速午前中播種す」
- 10月10日 仲間の帰りを祝って「コプラで腹をふくらます、大した今日としては何より御馳走様であった」
- 10月11日 「上水にシャジ二本作って貰ふ。了。感謝」——匙を二本、作ってもらった感謝が、日記に残っています
- 10月19日 昼休みに浜でナマコを捕り、「夕食カボチャ飯。何より」
- 10月22日〜27日 椰子の実を取りに、島づたいの出張
種をまく。風呂に入る。匙に感謝する。飢えの中で、この人は日常を手放していません。
匙を二本、作ってもらって、「了。感謝」。……この五文字に、この人のすべてが入っている気がします。
⑤ 家庭覧——ここだけ、大きな字
手帳のなかに、家族へ向けた頁があらわれます。「コレヨリ家庭覧ニシテ有リマスカラ ヨク読ンデ下サイ」——家族に読んでもらうための頁。ここだけ、大きな字で書かれています🟢(みずき書林特設ページの解説)。
届くあてのない手紙を、冨五郎は手帳のなかに書きはじめます(逐語は仁平論文とみずき書林特設ページの公開分)🟢。
僕ノ分マデ子供ヲ可愛ガッテ 四人ノ子供ヲ有テテ呉レ
孝子、信子、勉、赤チャンモ。親孝行ハ 皆ンナデ母親ニ孝行ヲシテ下サイ
四人の子の名前を、一人ずつ呼びます。郷里・亘理の田地は売るな、と財産の相談も書きます。「僕ナキ後ノ暮シハ……最モ暮ラスニ良イ道ヲエラビナサイヨ」。家族との文通の記録も残ります——「手紙ノヤリ取モ十八年八月カラ十一月頃マデダ……一度ダケ十二月頃小包着タ アリガトウ」。
そして、自分の食べたいものを、ひとつだけ書きました。
セメテ カドヤノ天丼デモタベタイ クサレタタクアンデモ良ロシイ
その同じ手が、子どもたちにはこう書きます。
僕ノ命日ニハ 子供達ニ沢山御馳走スルコト
楽シイ時モ 苦シイ時モ オ前達ハ 互ヒニ 信ジ合 嬉シイ事ハ 分チ合ヒ
元気デ、ホガラカニ オイシイモノデモタベテクラシテ下サイ
食べるものがなくなっていく島で、この人が家族に残した言葉は、最後まで「食べること」と結びついていました。
⑥ 絶筆と、仲間の手
昭和20年(1945)4月25日。手帳の最後の頁です🟢(仁平論文 p.309-310)。
二十五日 全ク動ケズ苦シム
日記書ケナイ 之ガ遺書
昭和二十年四月 二十五日
最後カナ
翌26日、佐藤冨五郎は栄養失調のため亡くなりました。三十九歳。戦闘は、最後までこの島に来ませんでした🟢(みずき書林特設ページ)。
二冊の手帳は、島で終わりませんでした。生き残った戦友・原田豊秋の手で、仙台の家族のもとへ届けられます🟢(届いた経緯の詳細は分かっていません→⑩の4)。
長男の勉さんは、この手帳を長く保管しました。「何度か通しで読もうとしたが、涙が出て、読み続けられなかった」🟢(J-CAST BOOKウォッチのインタビュー記事)。2005年、心理学者の仁平義明さんが手帳を判読し、のちに若手研究者たちのチーム「金曜調査会」が一年以上かけ、赤外線観察も使って翻刻を完成させます。2018年、一冊の本になりました(→⑦)。勉さん自身も、その本に寄稿しています。
日記が書けない、という日記。……最後の頁まで、ちゃんと書いてあるんです。
⑦ この先へ——書籍と映画
このページの引用は、公開されている範囲(研究論文と出版社の特設ページ等)からのものです。手帳のこと、家族のこと、そして島を訪ねた人たちのことは、次の書籍と映画が深く伝えています。
- 『マーシャル、父の戦場——ある日本兵の日記をめぐる歴史実践』(大川史織編・みずき書林・2018年・ISBN978-4-909710-04-8)——二冊の手帳の翻刻と、研究者・家族による論考。
- 映画『タリナイ』(大川史織監督・2018年)——勉さんが2016年、父の島ウォッチェを訪ねる姿を追ったドキュメンタリー。続編に『keememej』(2021年・マーシャル語で「憶えている」)。
- 仁平義明「佐藤富五郎一等兵曹の遺書・戦場日記」(白鴎大学論集25-1・2010年)——手帳の判読を最初に報告した研究論文。機関リポジトリで公開されています。
⑧ 写真で見る
写真は米海軍(パブリックドメイン)、国立国会図書館デジタルコレクション、NASA、石川光陽(パブリックドメイン)の公開資料です。
⑩ もっと深く——諸説あり
凡例:🟢=複数の資料で確かめられること/🟡=資料により異なる・諸説あること/⚪️=裏付けが取れていないこと。分からないことは、分からないと書きます。
🟢 確か複数の資料で確かめられること 🟡 諸説資料により異なる・諸説あること ⚪️ 裏付けなし裏付けが取れていないこと
1. 守備隊と犠牲の数字は、資料により大きく異なる 🟡 諸説
1944年1月時点の守備隊約3,324名はニミッツ『太平洋海戦史』の記載🟢。一方、生還者の数は資料の系統で揺れます——籠城3,100名・生存1,074名とする商業出版の紹介(土屋太郎『ウオッゼ島籠城六百日』)、復員1,414名とする年表(日置英剛編)、餓死2,900名とする記述(出典の明示がなく確認できません⚪️)。このページと動画が「三人に一人ほど」「数字は資料により異なります」としか言わないのは、そのためです。
2. 所属部隊は、海軍第64警備隊 🟢 確か
『マーシャル、父の戦場』編者の大川史織さんが、アジア歴史資料センターのニューズレターで「冨五郎氏の所属部隊は、海軍第64警備隊です」と明記しています。同隊は昭和17年(1942)4月編成、第6根拠地隊に属してウォッゼ島の防備を担当しました。当時の第64警備隊戦時日誌(アジ歴 Ref.C08030497100)や「生存者給与通牒控綴」(同 Ref.A03032167800)も公開されています。
部隊の側から辿る:第64警備隊(部隊の目録・海軍警備隊の棚)/第6根拠地隊(同・根拠地隊の棚)
3. 上陸の日付は、資料によって食い違う 🟡 諸説
仁平論文の略歴(ご子息の証言にもとづく段落)は「4月28日に上陸」と書いています。しかし同じ論文の日記の注は「ウォッチェ入港が昭和18年8月1日だったことがわかる」としており、論文の中で食い違っています。決着させたのは冨五郎自身の日記でした——1944年8月1日に「昨年の今日ウオッチェ入港」と書いています。4月28日は、本人が「応召記念」と呼んだ召集の日でした。
そして死の13日前、1945年4月13日の日記にこうあります。「せめて応召記念、4月28日まで」。自分が兵になった日を、最後の目標にしていました。
3. 手帳の原本が現在どこにあるか、公開資料に明記はない ⚪️ 裏付けなし
長男・勉さんが長く保管してきたことは確かです🟢。現在の所在(遺族のもとか、寄贈先か)を明記した公開資料は確認できていません。
4. 手帳がどうやって仙台に届いたか、詳細は分かっていない ⚪️ 裏付けなし
運んだのが戦友・原田豊秋であることは確かです🟢。いつ、どのような経緯で家族に手渡されたのかは、公開資料からは確認できません。そして日記の1944年10月19日には、こんな一行があります——「僕ト原田 同年デアッタ」。日記に登場するこの「原田」が、手帳を持ち帰った原田豊秋と同じ人かどうかは、分かっていません⚪️。同じ人であれば、日記に書かれた戦友が日記を家まで運んだことになりますが、このページは確認できるまで断定しません。
5. 名前の表記は「冨五郎」と「富五郎」が併存する 🟡 諸説
書籍・記事の多くは「冨五郎」、研究論文の書誌(CiNii・白鴎大学論集)は「富五郎」。どちらも公的に使われています。このサイトは書籍の表記に合わせ「冨五郎」としています。
6. 絶筆の四行について 🟢 確か
「二十五日 全ク動ケズ苦シム/日記書ケナイ 之ガ遺書/昭和二十年四月 二十五日/最後カナ」(仁平論文 p.309-310)。日記が書けなくなった日に、日記を書くことをやめる報告がその日の日記になっている——この四行のあと、頁は白紙です。翌日の死去は、戦後の記録で確かめられます🟢。
7. 「ネズミが入ったおじや」は皮肉かもしれない 🟡 諸説
1944年10月1日の「今日のおじや又(ネズミが入った)味の良い事は日本一」。判読した仁平論文自身が、この「日本一」は皮肉の可能性があると注記しています。本気の感想か、皮肉か——手帳の字面だけからは決められません。決められないことも含めて、この日記の読み方です。
出典
アジア歴史資料センター ニューズレター第27号「佐藤冨五郎日記を繙く―70年の時を超えて―」(大川史織)/仁平義明「佐藤富五郎一等兵曹の遺書・戦場日記」白鴎大学論集25-1(2010・機関リポジトリ公開PDF=①③④⑤⑥の逐語)/みずき書林『マーシャル、父の戦場』特設ページ・商品ページ/J-CAST BOOKウォッチ(2018)/小説丸・70seeds・KUMON now!(大川史織インタビュー)/ニミッツ『太平洋海戦史』(守備隊数)/JA-Wikipedia「ウォッジェ環礁」ほか/写真=米海軍(パブリックドメイン・NHHC/NARA)・NDLデジタルコレクション・NASA・石川光陽(パブリックドメイン)。
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